Vol.21 心を動かす音楽を遺し...ハル・デヴィッド逝去
バート・バカラックとのコンビで’60年代から’70年代初頭にかけて数々のヒット曲を生み出した作詞家:ハル・デヴィッドが9月1日(‘12年)脳卒中の合併症で死去、享年91歳でした。 ハルはそれまでのポップ・ソングを、単なる流行歌からソフィスティケイトされた芸樹の粋まで~言い換えればティーンエイジャーの音楽から大人の音楽~へとアップグレイドした、という点で、戦後活躍した最も優れた作詞家の一人と言えるでしょう。 ティーンエイジャーの音楽を大人の音楽へアップグレイドしたハルとバカラックの音楽と言いましたが、大人の音楽と言う意味ではそれまでのガーシュイン、ポーター、ロジャース&ハートのそれとの差は何だったのでしょう? その違いは第二次大戦前と後の世界観の変化だったと言えましょう。 単純且つ直線的なものの考え方が主流だった戦前に対し、世界がより複雑になった状況が音楽的に反映したわけです。 “君が好きだ”といったストレートな世界ではなく、より”猥雑で嫉妬や駆け引きがある”複雑な世界に変わったのです。 ハルは作詞にエモーショナル・インパクト(心を動かすこと)を大切にしていました。 饒舌に過ぎず、余白をもった、聞き手にイマジネーションを与える世界、それがハル・デヴィッドの詞の世界であり、それをバカラックの生み出すサウンドが広げたのです。 ハル・デヴィッドは1921年5月25日、ニューヨークはブルックリンに生まれました。 ちなみに、ハルの兄:マックも作詞家で、バカラックとビートルズでお馴染みの「ベイビー・イッツ・ユー」(オリジナルはシャイライツ)の作詞をしています。 ハルとバカラックとの出会いは、1957年、音楽出版社が集まるブリル・ビルディングのフェイマス・パラマウント・ミュージックのオフィス。 デヴィッド/バカラック・コンビがペリー・コモのために書いた「マジック・モーメンツ」は全米4位のヒット(‘58年)になりましたが、コンビでの活動はこの後途切れます。 二人が再会したのは’62年、ドリフターズの仕事でした。 この時のデモを歌ったのがディオンヌ・ワーウィク、彼女の歌にほれ込んだ二人はその後ディオンヌを専属のデモ・シンガーに起用、後に彼女はセプターからレコード・デビューします。 再会後のコンビは、’62年から’70年にかけて、ヒット連発しまさに黄金時代を迎えます。 「ブルー・オン・ブルー」(ボビー・ビントン)「ワイヴス・アンド・ラヴァーズ」(ジャック・ジョーンズ)「ウォーク・オン・バイ」(ディオンヌ・ワーウィック)「リヴァティ・バランスを撃った男」(ジーン・ピットニー)「世界は愛を求めてる」(ジャッキー・デシャノン)「何か良いことないか子猫ちゃん」(トム・ジョーンズ)「アルフィー」(シーラ・ラック)「ザ・ルック・オブ・ラヴ」(ダスティー・スプリング・フィールド)、’69年の「雨にぬれても」(B・J・トーマス)は映画「明日に向かって撃て」のテーマ曲としてアカデミー主題歌賞を受賞しています。 ‘70年に入り「遥かなる影」(カーペンターズ)を大ヒットさせますが、’72年のミュージカル映画「失われた地平線」の失敗が二人の間に影を落とし、それぞれが別々のプロジェクトに向かいました。 その間、ハルは’84年にアルバート・ハモンドとのコンビでフリオ・イグレシアスとウイリー・ネルソンによる「世界のすべてに女性へ」をヒットさせています。 昨年アメリカ議会図書館から「ガーシュイン賞」を受賞しその功績を讃えられ、今年9月、91歳で亡くなりました。 そして、奇しくもかつての盟友:バート・バカラックがハルの悲報のなか来日しました。 ビルボード・ライヴでの来日公演(‘12/9/8)では、オープニング・ナンバー「世界は愛を求めてる」を演奏し終えた後、バートはハルの死を報告、あまり多くを語らず、ただ”2週間前に亡くなった大切な友人にささげます”と喋った後「ドント・メイク・ミー・オーヴァー」「ウォーク・オン・バイ」」アイ・セイ・ア・リトル・プレイヤー」など、二人で共作したナンバー7曲をメドレーで演奏しました。 まるで鎮魂歌のように…。 “心を動かす音楽”を遺し天国へ旅立ったハル…合掌です
リリース情報
★V.A.『バート・バカラック・ソングブック』(UICZ-1454) 絶賛発売中バカラック・ソングのカヴァーver.及びオリジナルver.を収録した2枚組。
ハル・デヴィッドとの共作曲、多数収録!