Vol.53 終焉を迎えたティン・パン・アレイ時代

 こうした映画産業、レコード産業(ロックン・ロールやシンガー・ソング・ライター・タイプのアーティストの抬頭も含めて)の繁栄がティン・パン・アレイに加えた変化は、これまでに書いた《音楽ビジネスのイニシャティヴを失ってしまった》という機能的な面だけではなく、もう一つ地理的な面でも見ることができるのである。
  言うまでもなく、“ティン・パン・アレイ”という語源自体が、28丁目の5番街とブロードウエーの間の、限られた一つの通りを意味していたのだが、第一次世界大戦の前後から劇場がより、アッパー・ブロードウエーに移るに従って、音楽出版社も42丁目から54丁目のブロードウエーを中心とした一帯にオフィスを移動していった事は前にも書いた。しかし、シングル・ストリートにまとまって存在していなくても、いずれにせよ、音楽出版社がニュー・ヨークの一部に集まっていったのでこうした地域一帯を称してティン・パン・アレイ、と呼ぶ事はそう無理なことではなかった。
  それが映画産業がまず音楽出版社をニューヨークからハリウッドに移動させ(多くは、両方の海岸にオフィスを持っていたが、ハリウッドだけしかオフィスを持たない、新しい出版社も次々と登場していた)、ティン・パン・アレイという、それまで創られていたイメージを大幅に崩したのである。次いで、レコード産業が伸びを見せ出すと、《ティン・パン・アレイはレコード・ロウに変じた_》と人々に噂されたように、レコード会社の所存地の近くに出版社が存在するようになり出す。ニュー・ヨークでは、これまでの音楽出版社の所存していた一帯に、レコード会社(多くの場合マイナーだったが)がオフィスを設け出したので、大きな変化は起らなかったが、ハリウッド、ナッシュヴィル、シカゴなど、全米のいくつかの土地に、一つのミュージック・シティが出来だし、それと共に音楽出版社も、そうしたミュージック・シティの中で一つの地位を占めるようになり、ニューヨークのティン・パン・アレイがヒット曲の生産地の中心であった時代は終りを告げるのである。
  勿論、こうした全米への拡散化、ということは、ロックン・ロールの登場による、マイナー・レコードの急激な出現、といったことが原因の一つとなっていることは否定できないが、もう一つは、そうしたマイナー・レコード会社がニューヨークやロサンジェルス以外の都市でも存在することを助けた、ローカル・ステーションのディスク・ジョッキーの力、ということも見逃がすことのできないファクターである。
  1940年代から、その存在が音楽業界で注目され出したディスク・ジョッキー(このディスク・ジョッキーという言葉自体は、1957年頃、ヴァラエティ誌が使い出し、一挙に有名になったものであるが__)を、まず最初に意図的に利用しよう、と考えた音楽出版社はハリー・リッチモンド(現在のリッチモンド・オーガナイゼーションの創始者。TROエセックス・ミュージックとして、イギリス、アメリカで依然として大きな力を持った音楽出版社である)ということができるだろう。彼は新曲をレコーディングしようとしたり、レコーディングされたレコードなどをよくDJのところに持ち込んでは、“どちらの曲の方がヒットするか?”或いは“どちらの曲の方が放送し易いか?”といった意見を聞いては、自分のブレーンにDJを加えていたのである。それが、1950年にフィル・ハリスというアーティストが彼の出版したチャールス・グリーンの書いた曲「The Thing」をレコーディングし、RCAレコードから発売されることになった時、思いがけない効果を発揮することになったのである。