Vol.52 飛躍的な増加をみせたペーパー・カンパニー

1960年代に入り、音楽業界に弁護士が大幅に参入しだすと共に、こうしたアーティスト(特に自分のレコーディングする曲のほとんどは自分たちで作り出す、というセルフ・ペン・スタイルのアーティストによく見られた傾向であるが……)のためのペーパー・カンパニーは、1950年代の増加カーブを飛躍的に上廻る勢いでふえるようになる。
  彼ら、音楽業界の弁護士は、自分たちのクライアント(依頼人)をふやすために、“あの弁護士は有能だ、あいつに頼めばクライアントの利益をふやしてくれるために考えられるあらゆる方策をとってくれる……”といった評判が必要だったので、新しく音楽業界に入って来た若い弁護士たちは、それまでのイスタブリッシュトされた大物弁護士とは違った発想を要求されていたのだ。(基本的に1960年代に新しく業界に入って来た若手弁護士との最も大きな違いは、前者がクライアントのビジネスに対して積極的参加、つまり、クライアントからの以来があるなしに抱らず、常にクライアントのビジネスがいい方向に向うように努力している、というものであるのに対し、後者は消極的参加、即、弁護士本来の仕事である、契約書の検討や、法律問題が起った時のコンサルタントであった、ということである)だから彼らは、新人アーティストをクライアントに迎えると(当然のことながら、大物アーティストには既に大物弁護士がついていて、彼ら若手の出る幕はなかったのである)、いかにしたら自分たちの存在価値をクライアントに認めさせるかに全力を尽くしたのである。そして勧めたのが自分の出版社を設立することである。
  レコード業界が低迷を続けている時期なら或いはこうは巧く運ばなかったかも知れない。しかし、ロックン・ロールの登場した1955年以降、1960年の前年対比-0.5パーセントという、例を除いて以外、毎年スケールをひとまわりずつ大きくしていたレコード業界は、アーティストを必要としていた。勿論、そうしたレコード会社も傘下にそれぞれ音楽出版社を擁し、可能な限り、自社で出すレコードの著作権は自分のところの出版社で管理したい、という欲求は持っていた。こうした傾向は特にロックン・ロール登場以降に設立されたマイナー・レコード・レーベルの方が、こうした事に熱心(これは、この頃からシンガー・ソング・ライター・タイプのアーティストが多くなり、アーティストと契約する時に、彼の著作権についても交渉することが可能だったからだ)で、逆にRCA やCBSといった歴史のあるレコード会社は、1930年代の音楽出版社とレコード会社のつながりといった一つの既成概念があったために、少なからぬおくれをとることになる。しかしいずれにしても、こうしたレコード会社は、まず第一にレコードを自分のところから出すことにあったので、レコードの契約が出来れば、出版権はアーティストの手に残しても仕方ない、という対処の仕方をしたのである。
  そして、これはいまや“音楽出版社というものがすべて、こうである、と思われては困る。こうした弁護士やマネージャーによって設立され、運営されている出版社は、何のプロモートも管理もしていない”(アリスタ・ミュージック副社長、ビリー・メシェル)という声が挙がり、そうした会社と自分たちを区別するために、“クリエイティヴ・ミュージック・パブリッシャーズ・アソシエーション”といった連合を発足させる、といったような事態になっているのである。
  確かに、ビリー・メイシェルが言っているように、イーグルスやジョニ・ミッチェルの出版社がアメリカで独自のプロフェッショナル・スタッフを持っていて、曲のプロモートを行っていたら、もっともっと多くのアーティストが彼らの曲のカヴァー・レコードを作っていたに違いない、という気はする。