Vol.56 インストゥルメンタルの大スター、デュアン・エディの誕生
こうしたディック・クラークの巨大なネット・ワークのスタートは、ジャミー・レコードだった。フィラデルフィアのレコード販売業者ハロルド・リプシャスが、ウエスト・コーストの若いプロデューサー、リー・ヘイゼルウッドの持ち込んで来たギタリスト、デュアン・エディを見た時、“これこそ「アメリカン・バンド・スタンド」にピッタリのアーティストだ!!”と考えたことに、ジャミー・レコード発足の源がある。彼は後にレスター・シルと組んで、これまた若いプロデューサー、フィル・スペクターのレコード会社、フィレスを設立するのだが、販売網を持っているハロルドにとって、レコード会社を作ることは何の難しさもなかった(それ以前にも、レスター・シルとリー・ヘイゼルウッドと組んで、Lipsious, Sill, Hazelwoodそれぞれの頭文字、LSHをとったレーベルも設立している)
このジャミー・レコード、ハロルド・リプシャスと、ハロルドの持っていたユニヴァーサル・レコード、ディストリビューション・コーポレーションのプロモーション・マンをやっていたハリー・フィンファー、レコードのプレス工場を経営していたサミュエル・ホッジ、それにディック・クラークの4人が、それぞれ1/4ずつの株を持つことでスタートした。そして1958年の初めに発売したジャミーの1枚目のレコード、デュアン・エディの「Moovin' & Groovin'」(Jamie 1011)は、3月には全米のヒット・チャートにも顔を出すヒットとなり、2枚目「Rebel-'Rouser」は58年7月にベスト10に入るビッグ・ヒット__といったように、一躍インストゥル・メンタル・レコードの大スター、デュアン・エディがこのジャミー・レコードを通じて誕生するのである。
勿論ディック・クラークが自分の番組「アメリカン・バンド・スタンド」でデュアン・エディのレコードをかけまくったことは言うまでもない。当時、アメリカの音楽業界で半分アキレ顔で言われていたことが、この事実を証明している、といえよう。それは“参ってしまうよナ、なにしろディック・クラークはエルヴィス・プレスリーのレコードよりデュアン・エディのレコードの方を数多くかけているんだから__”というものだった。このことについて、ディック・クラークは自分の半生記を描いた本「Rock, Roll & Remember」の中で、こう弁明している。“いや、あの番組では30分に1回ブレークがあって、そこではインストゥルメンタル・レコードをかける必要があったんだ。ただ、仲々ここに合う、いいインストゥルメンタル・レコードがなかったんだ。だから1957年には、ジミー・ドーシーの「So Rare」をかなり使っていたりしたよ(そのせいで、このレコードは大ヒットしている)。だから、デュアン・エディのレコードが出て来た時、自分に関係のあるレコード会社のものではあるが、これ程ピッタリのインストゥルメンタル・レコードはない、と感じたので取り上げただけさ__”
しかし、このディック・クラークのコメントは、こう取ることができるだろう。つまり、「アメリカン・バンド・スタンド」の仲には30分に1回、インストゥルメンタル・レコードをかけるスペースがある。しかし、それにもかかわらず、いいインストゥルメンタル・レコードはない。自分のとり上げた「So Rare」は大ヒットとなってしまった。何で自分の関係するレコードを持たないのだ__。この結果、ハロルド・リプリシャスとリー・ヘイゼルウッドのアプローチがピッタリとタイミングが合って、ジャミーの設立、デュアン・エディのスター化__という一つのプロセスが創り上げられたのであろう。しかも、ヴォーカル・レコードと違って、ブレークに放送されるインストゥルメンタル・レコードまで、気にする人は、そういない__ということまで彼らは読んでいたかも知れない。
このジャミー・レコード、ハロルド・リプシャスと、ハロルドの持っていたユニヴァーサル・レコード、ディストリビューション・コーポレーションのプロモーション・マンをやっていたハリー・フィンファー、レコードのプレス工場を経営していたサミュエル・ホッジ、それにディック・クラークの4人が、それぞれ1/4ずつの株を持つことでスタートした。そして1958年の初めに発売したジャミーの1枚目のレコード、デュアン・エディの「Moovin' & Groovin'」(Jamie 1011)は、3月には全米のヒット・チャートにも顔を出すヒットとなり、2枚目「Rebel-'Rouser」は58年7月にベスト10に入るビッグ・ヒット__といったように、一躍インストゥル・メンタル・レコードの大スター、デュアン・エディがこのジャミー・レコードを通じて誕生するのである。
勿論ディック・クラークが自分の番組「アメリカン・バンド・スタンド」でデュアン・エディのレコードをかけまくったことは言うまでもない。当時、アメリカの音楽業界で半分アキレ顔で言われていたことが、この事実を証明している、といえよう。それは“参ってしまうよナ、なにしろディック・クラークはエルヴィス・プレスリーのレコードよりデュアン・エディのレコードの方を数多くかけているんだから__”というものだった。このことについて、ディック・クラークは自分の半生記を描いた本「Rock, Roll & Remember」の中で、こう弁明している。“いや、あの番組では30分に1回ブレークがあって、そこではインストゥルメンタル・レコードをかける必要があったんだ。ただ、仲々ここに合う、いいインストゥルメンタル・レコードがなかったんだ。だから1957年には、ジミー・ドーシーの「So Rare」をかなり使っていたりしたよ(そのせいで、このレコードは大ヒットしている)。だから、デュアン・エディのレコードが出て来た時、自分に関係のあるレコード会社のものではあるが、これ程ピッタリのインストゥルメンタル・レコードはない、と感じたので取り上げただけさ__”
しかし、このディック・クラークのコメントは、こう取ることができるだろう。つまり、「アメリカン・バンド・スタンド」の仲には30分に1回、インストゥルメンタル・レコードをかけるスペースがある。しかし、それにもかかわらず、いいインストゥルメンタル・レコードはない。自分のとり上げた「So Rare」は大ヒットとなってしまった。何で自分の関係するレコードを持たないのだ__。この結果、ハロルド・リプリシャスとリー・ヘイゼルウッドのアプローチがピッタリとタイミングが合って、ジャミーの設立、デュアン・エディのスター化__という一つのプロセスが創り上げられたのであろう。しかも、ヴォーカル・レコードと違って、ブレークに放送されるインストゥルメンタル・レコードまで、気にする人は、そういない__ということまで彼らは読んでいたかも知れない。