Vol.51 クリエイティヴな機能を持たない出版社の登場
ミュージック・ビジネスの入り口から出口までのフル・ラインを受け持っていたティン・パン・アレイが、映画産業やレコード産業の力が強くなるに及んで、ほんの一部の下請け作業的な部分しか担当できないような状況になってきたが、このことはまた、ティン・パン・アレイを尚一層崩壊へと導く呼び水となっていった。と、いうのは、それまで音楽出版ビジネスは完全にプロフェッショナルの仕事と人々から考えられ、事実、作家の才能のあるなしを判断し、才能があると考えれば、契約して育て、多大な印刷費用を掛けて出版する楽譜を決める、というように、そこにはリスクが伴っていたので、素人が何も判らずに参加する、という余地は殆んどなかったのであるが、映画産業レコード業界がクリエイティブな部分とリスクを担当し、音楽出版社はまるで銀行員のようにお金の計算と、帳面つけだけが仕事であるかのような印象を、ティン・パン・アレイ内部だけでなく、音楽業界全体に与え出し、“よし、それならば、自分の音楽出版社を設立して、少しでも自分のところに残るお金を多くしよう__”という考えをそうした人たちび間に勃発していったからである。
こうした“自分の出版社を__”と考えた多くの人たちは、レコードを吹き込めば自動的に大ヒットとなることが約束されているビッグ・バンドのリーダーや、人気シンガーであった。彼らは、レコーディングする曲の殆んどを自分の音楽出版社で権利のとれるものにする。という方向に進み出すのである。フランク・シナトラ、ペニー・グッドマンなどがそうしたケースの代表例として挙げることができる。
そして、この傾向により拍車をかけたのが1940年代後半からボチボチ一般的になってきた黒人アーティストによるリズム&ブルースの抬頭と、こうしたリズム&ブルースを白人アーティストが自分たちなりに取り上げて、一大センセーションを呼ぶ1950年代中期に爆発するロックン・ロールの登場である。
こうしたアーティストの多くは、それまでのアーティストと違い、自分のレパートリーは自分で作詞、作曲していたから、楽曲を提供してくれる音楽出版社を必要としなかったのである。彼らの多くはデビューに際しては何も判らずに、レコード会社の所属の音楽出版社や、手近かにいた音楽出版社と契約したりしているが、やがて自分の出版社を設立するようになっていっている。そしてまた、彼らのマネージャーは、フランク・シナトラやナット・キング・コール、或いはサム・クックといったアーティストが自分自身の出版社を持って、少なからぬ成功を収めているのを横目で見て知っていたこともあって、タイミングを見はからっては、自分のアーティストに自身の出版社を勧めたのである。コニー・フランシスのフランコン・ミュージック、メルナ・ミュージック、ポール・アンカのスバンカ・ミュージック、フランカ・ミュージック、エルヴィス・プレスリー・ミュージック、グラディス・ミュージック、リッキー・ネルソンのヒリアード・ミュージック、ネルソン・ミュージック…etc、といった出版社は、すべてそうしたプロセスの産み出した音楽出版社である。
これらの音楽出版社は、単にそのスターのレコーディングする楽曲の権利を取得するだけで、譜面を印刷するわけではなく(多くの場合、大手の、そうした機能を持っている出版社に発行を任せていた)、独自に楽曲をプロモーションする訳でもない、本当にクリエイティブな機能を何も持たない、ペーパー・カンパニーに近い存在だったが、レコードの売り上げと、演奏使用料(特にラジオやテレビの使用料)が莫大な収益をもたらすために、その数は年と共に増加の一途をたどっている。