Vol.10 新しい収入の道を開拓したイノヴェーション

その他に音楽出版社が自分のところの曲を劇場に来た客に印象づけるためにとった手段としては、当時(1890年代)バルコニー席などの客に、飲み物や水をサーヴするために劇場が雇っていたウォーターボーイと呼ばれる少年たちの中で、歌の巧い人間と契約し、自分のところの曲のリフレインの部分をいいタイミングで歌わせる、という方法などもあった。
  こうした、シンギング・ストゥージやウォーターボーイといった、歌の巧い少年を音楽出版社は、教会の聖歌隊のメンバーの中からピック・アップしてくるのを常としていました。後年、レミック音楽出版のエース・ソング・プラッガーとして活躍し、ティン・パン・アレイ史上にも輝かしく記録されているベン・ブルームも教会の聖歌隊からヴォードヴィルのシンギング・ストゥージになり、ソング・プラッガーになりという道をたどっているし、あのアル・ジョルソンもショウ・ビジネスの世界には同じような経歴で入って来ている。
  こうした、いわば人間の働きだけで行うプロモーションに対し、人間以外の補助手段を使ってプロモーション効果を高める、というイノヴェーションが、当然の事ながら、次の段階として行われている。”ソング・スライド”と呼ばれるものがそれだ。

   このソング・スライドは、最初、ブルックリン劇場で働く、ジョージ・H・トーマスという男が、「The Old Homestead」というショーの中の「Where is My Wondering Boy Tonight?」という曲が歌われる時、ドラマティックな効果を出すためにステージのバックに何枚かのスライド写真をパッ!パッ!と写し出し、大きな成功を収めた事に始まる。
  観客の受けた感動が思っていた以上に大きいのを目の当たりに見た、ジョージ・トーマスは、このアイディアをジョセフ・W・スターン&カンパニーに話し、これが自分のところの楽曲のプロモートに大きな効果があると判断した。J・W・スターン&カンパニーは、その権利を買い取ったのである。
  最初、J・W・スターン&カンパニーは、「The Little Lost Child」という、出版したばかりの曲のためにこのアイディアを使うことにし、彼らは写真屋を雇い、歌の物語に合わせた数枚の写真を撮影した(ジョージ・トーマスの奥さんが、その迷い児の母親役をやり、警官は本物に出演してもらい、子役の女の子が主役の迷い児を演じた。)
  この「The Little Lost Child」のソング・スライドは、1894年にプリムローズ&ウエスト・ミンストレルズのショーのインターミッションに使われ、圧倒的な評判を呼ぶのである。すぐにこのソング・スライドはニュー・ヨーク中にひろまり、次いでアメリカ中に拡がっていった。このソング・スライドの影響は大きく、ソング・スライドをバックに歌手が歌うと殆んどの人は、その後すぐ譜面を買う、という行動に極く自然に移るのである。ドラマ化したスライドがバックに写される、という視覚からのイメージが加わっただけで単に耳から入る以上のインパクトを与えたのである。頂度、現在のテレビCMとタイアップしたレコードが全般的に売れ行きが非常にいいのと同様に…。
  音楽出版社は、最初、こうしたソング・スライドを何組か作って借りたい、という希望のある劇場にプロモートだからということで無料で貸し出していたのだが、すぐにこのソング・スライドが、劇場の一つのメイン・アトラクションとなってしまったのでやがて一組貸し出す毎に5ドルから10ドルの料金をとるようになった。全盛期には、一つの曲のソング・スライドが、アメリカ全土に1000セット以上も貸し出される、という現象も起こっている程である。
  出版社は、このイノヴェーションで新しい収入の道(時としては数千ドル以上の収入をもたらす)を一つ開拓することができたのだ。