Vol.11 音楽出版社のアップタウン移転

ロウワー・マンハッタンのバワリー周辺に最初かたまっていた音楽出版社の場所は、やがてウィットマーク&サンズがユニオン・スクエアーの傍の14丁目に引っ越したのを追いかけるようにして、相次いでこの5番街とユニオン・スクエアーの間の14丁目にオフィスを移していた。
  しかし、レビューが盛んになり、ビクター・ハーバートなどの登場によるアメリカン・オペレッタの隆盛……ウィットマーク&サンズがといったポピュラー音楽を使ったショーが多様化していった事とそうしたJン・オペレッタの隆盛……ウィットマーク&サンズがといったポピュラー音楽を使ったショーが多様化していった事とそうしたショーを行う劇場が、どんどんアップタウンに移っていった(例えば、カジノ劇場、マンハッタン・オペラ・ハウス、ヘラルド・スクエアー劇場などが34丁目に、その近辺にニッカーポッカー劇場やウォーラック劇場が……といった具合に)ことによって、そうした劇場に来る客を相手にする各種の商売、例えば、レストラン、カフェー、バー、そして音楽出版社ももっとアップタウンに移る必要にせまられたのである。
  1893年、再びウィットマーク&サンズが、この音楽出版社移動の口火を切る事になった。彼らは、14丁目(現在では昔、音楽出版社があった面影など全然なく、中南米の銀行や服地のディスカウント・センターといった店舗が並んでいる普通の通りになっている。ただ、13丁目や15丁目など、その前後の通りに比べると道幅が2倍以上もあり、その事が唯一つ、この通りが昔、少なからず栄えていた事を示していると言える。)を後にして、28丁目の5番街とブロードウェーにはさまれた地域にオフィスを移し、他の出版社が次々とそれにならったのである。
  こうして、28丁目の非常に短い地域に音楽出版社がまとまるようになり、アメリカ中で最も音楽出版社が集中した通りとしてこの5番街とブロードウェーの間を横切っている28丁目は知られるようになる。そしてまた、このことは、ニューヨーク以外で仕事をしていた出版社に対して”28丁目にオフィスを持たなければ……”という無言の圧力を加えることにもなり、一層、28丁目に出版社を集中させることになったのだ。(勿論、全部が全部28丁目に移った訳ではなく、レオ・フェイスト・ミュージックは37丁目に移るなどいくつかの会社は、よりアッパー・マンハッタンにオフィスを開いたが、大半はウィットマーク&サンズを見習って28丁目に移っている)
  こうして新聞記者のモンロー・ローゼンフェルドが”これこそティン・パン・アレイだ!”と名付ける素地が出来上がるのだが、この結果、この28丁目の一帯は、アメリカのショー・ビジネスの中心地であり、アメリカのポピュラー・ソングの大部分を生み出すファクトリー(工場)と化したのである。
  それと共に音楽ビジネスもますます巨大なものとなり、「A Bird in a Gilded Cage」という曲が1910年に200万部の譜面を売ったのを筆頭に、いくつもの200~300万部の譜面を売るベスト・セラーが誕生するようになるのである。(1900年から1910年の間には100曲以上の曲が100万部以上の譜面を売っている)そして作家にとっても出版社にとっても大きな利益をもたらすようになるのである。
  出版社は、ある曲の譜面の初版の1、000部を出版するのに制作費、プロモーション費用、人件費などを含めて2、500ドルもあれば充分だった。1900年当時、譜面は一部50セントで売られていたので100万部も売れば10万ドルの利益が生じていたのである(作家もまた10万ドルの利益を得ての上である。この頃には、大体に於て作家は、詞、曲につき、それぞれ5パーセントの印税を支払う契約を行うようになっていた)。