Vol.12 必然的にたどらざるを得なかった様式の変化

こうした100万部以上も売れる譜面が続々と生み出されるという現象は、それまで譜面の扱いに熱心でなかった他の販売業者、例えば大手のデパートなどをどんどん巻き込み、ひいてはデパートが喬客寄せのために本来50セントの値段が付いている譜面を6セントで売って目玉商品にし、それに対抗して出版社が連合体を作って赤字を承知の上で1部1セントで譜面を売り出し、そのデパートに『もう安売りはしない』という一札を入れさせる、という騒ぎを起こすなど音楽ビジネスは、益々ホットな、そしてビッグなものになっていったのである。
  そしてまた、こうしたマーケットの拡大という事は、とりも直さず、他の産業がやはり20世紀に入って必然的にたどらざるを得なかった様式の変化~つまり家内手工業生産形態から機械化による大量生産産産~をこの音楽出版ビジネスにももたらしたのである。
  そうした変化のまず一番大きく表れたのは、曲が作られるまでのプロセス、と言えるだろう。
  それまで多くの場合、殆どの楽曲は、作詞家や作曲家のインスピレーションや新聞記事や誰か人の話からヒントを得た結果ととか、何かに特に注意をひかれたり……といったどちらかというと、作家の創造意欲が何かの事柄に刺激された結果、生み出されるという、どちらかというと自然に卵が生まれて来るのと同様な状態で出来ていた。だから、出版社は、鳥が卵を生むのを待って料理の方法を考えるコックのように作家が曲を持って来てから、それをどうプロモートするかを考える、というプロセスをとっていたのである。
  しかし、マーケットのひろがりは、そうした自然発生、といった悠長な状態を許さず、鳥が卵を最も生み易い様な様々な条件(たとえば、餌であるとか、小屋の温度など)を人工的に作り出すのと同じ状況を創り出したのである。
  つまり、作詞・作曲家に出版社が色々ヒントを与えてそれに沿った歌を(ある意味で無理やり)次々と作らせる、というシステムをとり出したのである。
  こうした結果、あらゆる新聞の大きなニュース、新しい進歩、新しいファッションといったものが、次々とテーマとして作家に与えられ、28丁目のティン・パン・アレイに軒を並べてオフィスを構える数知れない音楽出版社からは、似たような曲が続々と送り出される、という事態が起こってくるのである。
  例えば、電話が発明されてそれが一般に使われ出すと電話をテーマにした曲が、「Hello, Central, Give Me Heaven」とか「Daisy Bell」といった具合に出てくるし、飛行機というものの存在が人々の目に触れ出すと「Come Take A Trip In My Airship」、「Come Josephine, In My Flying Machine」、「Up, Up, Up, In My Aeroplane」……といった曲が発売され、自動車がハイウェイを次々に走り出すと自動車そのものや自動車に関することをテーマにした歌が、1903年に第1回のワールド・シリーズが行われて野球熱がアメリカに広まるや「Take Me Out to the Ball Game」を筆頭に多くの曲が作り出される……といった様に。
  そうしてこうしたシステムは、、ティン・パン・アレイのスタッフ・ライター・システム(専属作家)を発展させ、この1つのシチュエーションなどのアイデアを作家に与え、何組かの作家が競作するという方式は、1960年初期に素晴らしい業績を残したアルドン・ミュージック(現スクリーン・ジェムス・EMIミュージック)まで延々と続くのである。