Vol.13 楽曲プロモートの新しい方法の開発
こうして次々と新しい曲が28丁目の楽曲製造工場(といってもいいような様相を既にティン・パン・アレイは呈していた)から、送り出され、それらが、かなりの売り上げを達成していた、という理由の大きな部分にティン・パン・アレイの各パブリッシャーによる途絶えることのない、楽曲プロモートの新しい方法の開発、という事があったのを見逃すことは出来ない。つまり、楽曲のプロモーションという事を通じて出版社自身が自分たちのマーケットを拡げていったのである。
彼らは、1900年代に入ると それまでのように劇場、レストラン、ナイト・スポットといったところだけで自分たちの曲が聞かれる、ということに満足しなくなって それまで音楽ビジネスによって侵されていない地域に入り込むようになったのだ。
例えば、トラックで昼食時の人で混雑している、ビジネス街に出かけて行き、最初はトラックの荷台をステージにして自分のところの曲を歌い、次いで そのトラックの荷台を譜面の小売り店に早変わりさせ、彼の歌を聞いて”譜面を買ってみよう”という気になった客に譜面を売る、という事を行ったし、マディソン・スクエア・ガーデンでオートバイ・レースが開催される日には、各社のソング・プラッガーが集まり、それぞれの持ち時間を決めて各々自分の社の曲を歌っていたし、夏のコニー・アイランドの海岸でプロモートする人間、ポロ・グラウンドでゲームとゲームの間に自分の担当の曲を歌う者、公園やアミューズメント・センターに出演しているブラス・バンドに演奏させる事を考えたプラッガー……といった具合に。
また、ヴォードヴィルをやっている劇場などでアマチュア・コンテストが、一つの目玉の催し物となると 出版社は若い、歌の巧い歌手を雇って そうしたコンテストに出場させ、自分のところで宣伝したいと思っている曲を歌わせる、という方法もとられたし、デパートや10セント・ストアの譜面売り場にソング・プラッガーが行き、ヒット曲を買物客に歌って譜面販売の促進を行うという、コロンブスの卵的な発想も実際やってみると 予想以上の効果があった。
パレード、選挙のキャンペーン、ピクニック、サーカス、遊覧船、その他、あるとあらゆる人の集まるところにソング・プラッガーは出かけて行き、自分たちの曲を拡める努力をしたのである。
これらのメディアの殆どは、譜面を限りなく売る、というのに役立ったが、一つだけ例外があった。それは、新聞である。ニューヨークの新聞とタイ・アップして日曜版に歌詞と譜面を載せてみたのだが、これは新聞の売れ行きを伸ばす役割は果たしたが、譜面の売り上げは、これによって少しも助長される事はなかったのである。
この事は、新聞王と言われていたウィリアム・ランドルフ・ハーストとシャピロ・バーンスタインの結んだ契約の結果が、もう一つ別の面から証明している。
というのは、全米にあるハースト系の新聞の力をもってすれば、どんな曲でもヒットさせる事が出来るというW・R・ハーストの自信にも拘わらず、このシャピロ・バーンスタインとの1年間の契約の間に新聞に載った6曲のうち、最高に売れたものでも5万部という数字しか残せなかったからである。何度も紹介するようだが、この当時は既に25万部という売り上げでも それほどまわりではビックリしない位のマーケット・スケールになっていた事を思えば、この5万という数字がどの程度のものか想像できるだろう。
”楽曲というものは、それ(譜面)を買おうとしている人たちに聞かれなればならないものだ……”というのが、この1年の新聞との契約から、ルウ・バーンスタインの得た教訓だった。
彼らは、1900年代に入ると それまでのように劇場、レストラン、ナイト・スポットといったところだけで自分たちの曲が聞かれる、ということに満足しなくなって それまで音楽ビジネスによって侵されていない地域に入り込むようになったのだ。
例えば、トラックで昼食時の人で混雑している、ビジネス街に出かけて行き、最初はトラックの荷台をステージにして自分のところの曲を歌い、次いで そのトラックの荷台を譜面の小売り店に早変わりさせ、彼の歌を聞いて”譜面を買ってみよう”という気になった客に譜面を売る、という事を行ったし、マディソン・スクエア・ガーデンでオートバイ・レースが開催される日には、各社のソング・プラッガーが集まり、それぞれの持ち時間を決めて各々自分の社の曲を歌っていたし、夏のコニー・アイランドの海岸でプロモートする人間、ポロ・グラウンドでゲームとゲームの間に自分の担当の曲を歌う者、公園やアミューズメント・センターに出演しているブラス・バンドに演奏させる事を考えたプラッガー……といった具合に。
また、ヴォードヴィルをやっている劇場などでアマチュア・コンテストが、一つの目玉の催し物となると 出版社は若い、歌の巧い歌手を雇って そうしたコンテストに出場させ、自分のところで宣伝したいと思っている曲を歌わせる、という方法もとられたし、デパートや10セント・ストアの譜面売り場にソング・プラッガーが行き、ヒット曲を買物客に歌って譜面販売の促進を行うという、コロンブスの卵的な発想も実際やってみると 予想以上の効果があった。
パレード、選挙のキャンペーン、ピクニック、サーカス、遊覧船、その他、あるとあらゆる人の集まるところにソング・プラッガーは出かけて行き、自分たちの曲を拡める努力をしたのである。
これらのメディアの殆どは、譜面を限りなく売る、というのに役立ったが、一つだけ例外があった。それは、新聞である。ニューヨークの新聞とタイ・アップして日曜版に歌詞と譜面を載せてみたのだが、これは新聞の売れ行きを伸ばす役割は果たしたが、譜面の売り上げは、これによって少しも助長される事はなかったのである。
この事は、新聞王と言われていたウィリアム・ランドルフ・ハーストとシャピロ・バーンスタインの結んだ契約の結果が、もう一つ別の面から証明している。
というのは、全米にあるハースト系の新聞の力をもってすれば、どんな曲でもヒットさせる事が出来るというW・R・ハーストの自信にも拘わらず、このシャピロ・バーンスタインとの1年間の契約の間に新聞に載った6曲のうち、最高に売れたものでも5万部という数字しか残せなかったからである。何度も紹介するようだが、この当時は既に25万部という売り上げでも それほどまわりではビックリしない位のマーケット・スケールになっていた事を思えば、この5万という数字がどの程度のものか想像できるだろう。
”楽曲というものは、それ(譜面)を買おうとしている人たちに聞かれなればならないものだ……”というのが、この1年の新聞との契約から、ルウ・バーンスタインの得た教訓だった。