Vol.14 有効なプロモーションの方法

勿論、1890年代後半にヴォードヴィル・ハウスに客寄せの一つとして急激に入り込んできた”フリッカーズ”と呼ばれる映画の前身ともいうべきものや、すぐ”フリッカーズ”にとって代わった無声映画も出版社のソング・プラッガーにとっては、プロモーション・メディアとして 一つの金鉱、といってもいい状況だった。特に無声映画が興行される時には、必ずと言っていい程、ピアノの伴奏者がついていたので そうしたピアニストに単にアドリブでピアノを弾かせる代わりに 自分の曲を使ってもらうという発想が、アッという間にポピュラーになったのは当然と言えるだろう。
  1877年の12月15日にトーマス・エディソンが発明したレコードも1890年代には単にメッセージを録音するもの、というより音楽の伝達機関として人々に評価されるようになってきていた。こうした傾向を逸早く察したティン・パン・アレイの大手出版社の一つ、ジョセフ・W・スターンは、”今後音楽産業にとって レコードが非常に大きな意味を持ってくるに違いない……”と考え、1897年に東28丁目(ティン・パン・アレイのあったは西28丁目)にユニヴァーサル・フォノグラフ・カンパニーという、レコーディング・スタジオを設立したのである。しかし、実際的にレコードが一般に拡まるには、もう少し時間を必要とし、このJ・W・スターンの先見の明であるスタジオは、思った程の収入を上げることが出来ず、間もなく閉鎖されてしまっている。
  だが、このJ・W・スターンの投資からも判る通り、音楽出版社は、レコードの有用性を早くから認めており、当然のことながら、非常に有効なプロモーションの方法としてこれを使っていたのだ(ペニー・アーケードにプレーヤーを置いて、自分のところの曲を録音したレコードを演奏したり、譜面の売り場で販売促進のためのデモンストレーションのために演奏したり……といった具合に)。
  しかし、この時代のプロモーションのメソッドの中で最も実際的に効果があったのは、1890年代の頃と同じく、劇場の中で 観客の1人が感動して思わず立ち上がって 直前に歌われた曲のサビの部分を歌っている、といった格好をとる方法、或いは、一種のペイオラと言うことのできる、劇場の関係者(歌手やその他の関係者)に直接自分のところの曲を使ってくれるよう、売り込むという方法だった。
  というのは、ミュージカル・コメディーのビッグ・スターやヴォードヴィルの主役を押さえて 自分のところの曲を彼らの主演するショーの中で歌わせることが出来れば、譜面を一時期に大量に売ることが出来るばかりでなく、曲がポピュラーになり、長い期間有名になるという新しい生命を吹き込むことになる、という事を 彼らは身を以って体験していたからである。
  しかし、当然のことながら、最初は、ソング・プラッガーの熱意とか、ソング・プラッガーとアーティストとの個人的な友情、といったことでアーティストは自分の歌う曲を選んでいたのが、次々と各社のソング・プラッガーが、影響力のある(つまり、ショーの中で歌う事によって観客が、これは、いい歌だ、と思わせる事の出来る力を強く持った)歌手に集中するに従ってソング・プラッガーとアーティストの間には、そうした単なる友情や”曲がいいから”といった綺麗事では済まない、物品や金銭のやりとりが、からむようになってくるのである。そして、それは少しでも有力なアーティストをつかみたい、というソング・プラッガー同志の、贈り物競争になり、次いで、アーティストに曲の印税の一部を渡す、”成功すれば、あなたもその度合に応じて収入が大きくなりますよ!!”という事に瞬く間に発展してしまうのである。