Vol.15 吹き荒れた"ペイオラ旋風"

こうした”ペイオラ”(という言葉はまだ当時使われていなかったが)で得る収入方が、劇場でサラリーとしてもらう収入より多くなる、という歌手やアーティストが、かなり多くなって来る。1905年頃でティン・パン・アレイ全体で1年間に50万ドルの金をステージ・スターの誰れ彼れに注ぎ込んでいたのである。
  勿論、すべてのパブリッシャーが無条件で こういった”ペイオラ”競争に加わった訳ではない。例えば、J・ W・スターン&カンパニーのパートナー、エドワード・B・マークスなど 最初は、こうした風潮に強く反対した1人であるが、時と共に彼らの会社で管理している曲がステージやショーで使われなくなり、歌われなくなるに従って 結局、他と同じ事をせざるを得なくなっているのである。
  そして1910年迄には、アーティストに高い金を払ったり、贈り物をしない為に そうした”仲間”を持たない出版社は、自分たちの曲をショーの中で歌わせる事が出来ないし、アーティストに”仲間”を持った出版社は出版社で自分たちが毎週アーティストに支払っている金額をカヴァーするだけの収入が必ずしも上げられていないばかりか、時と共にその差額が大きくなって行く事に気付いているという、どっちにとっても良くない状況になっていたのだ。
  しかし、だからといって”仲間”を持っている出版社は、彼らに対する支払いを止める事は出来なかった。そんな事をすれば、”仲間”をもっと作りたいと思っている出版社や或いは、現在持っていないが、何とか持ちたい、と思っている出版社が、アッという間に彼(または彼女)と新しい契約をしてしまうだろうし、その上、その出版社は、殆どの歌手が、どこかの出版社とつながっていて自分のところの曲を歌ってくれる可能性などゼロに等しい、という状況に陥ってしまうことは目に見えていたからである。
  だが、こうした事は、出版社だけに不利に働いただけではなかった。アーティストにとっても経済的には確かにメリットがあったかも知れないが、ミュージカルやヴォードヴィルの質が極度に落ちる、という事でやはり悪い影響を充分与えていたのだ。というのは、アーティストは契約のある出版社から曲を持ち込まれると自分には向いてなかったり、ショーの内容とマッチしない曲だったりしても金をもらっている弱味でその曲を歌わざるを得なくなり、逆にいくらいい曲が他の出版社から持ち込まれても断らざるを得ない訳なのだから、どうしてもショー全体のイメージを傷つけることになってしまうからだ。そしてまた、彼自身のアーティストとしての評価も結果として下げてしまうことにも当然なっていたのである。
  こうした醜い、そして非生産的な光景を見ていて”何とかしなければならない”と考えた1人にショウ・ビジネス業界誌、ヴァラエティのビジネス・マネージャーだったジョン・J・オコナーがいた。彼はその方法としてMusic Publishers Protective Association(MPPA)という、ペイオラを禁止し、出版社の利益を守る団体を設立したのである。
  しかし、フェイスト、レミック、T・B・ハームス、といった大手の出版社は、いずれもそのメンバーとなることを拒否してきたのだ。そこでオコナーは、1916年、大きな劇場のチェーンのオーナーに彼の傘下の劇場で行われているショーの選曲が、いかに特定の出版社のものに片寄っているか、という事を目の当たりに見せ、事態を重要視した、そのオーナーに”今後一切、自分の傘下の劇場のショーで使う曲はMPPAに加盟している出版のものでなければならない”という通達を出させたのである。この結果、フェイスト、レミックなどは急遽、相次いでMPPAのメンバーになり、大きく荒れた”ペイオラ旋風”もようやく収まったのだ。