Vol.16 ショー・ビジネスそのものの拡大

しかし、こうした”ペイオラ”による手段やその後のオーソドックスなプロモーションによって自分たちの楽曲をステージで次々と歌わせる、という出版社サイドの働きかけもさることながら、ショー・ビジネスそのものもこの1900年代初期には、そうした供給を上廻る需要を生み出す世界に拡大されていたのである。
  というのは、レビューやミュージカル・コメディーのために劇場サイドは、常にティン・パン・アレイに対してフル・スコア(ショー全部の音楽)だけでなく、”何でもいいから、いい曲があったら持ってきてみてくれ…”と 新しい曲を要求していたからだ。
  こうした結果、1900年から1910年頃の間に作られたミュージカルやレビューの音楽は、まず誰かの作ったベーシック・スコアがあり、それに加えて何人もの作曲家の作った曲が、それぞれの場面に合せて使われる、という状況が、ごく当然のこととして通っていたのである。
  この時代、ダンスも曲もステージの上で話されるユーモアも ある意味でそのショーの基本となっている台本やセリフとは、一切関係なく使われていたのだ。言うならば、最初の台本の上にそれに合う、と思われる色々な飾りを歌や踊りでつけて最終的に何とか「かっこう」をつけるといった形に近いものだったのである。
  だから、プロデューサーやショーの台本作家は、いいコメディの要素や観客にアピールする、と思われる曲に出会うと それが全体のショーの流れに於いてピッタリはまるものであるかどうか、という事に関係なくどんどん取り入れる、という有様だった。
  しかもそれは、ショーがオープニングするまでの期間だけの事ではなく、よく既にオープンしてからも行われたのである。つまり、既に公演されている途中でプロデューサーが、いい曲を見つけたり、作家がおかしなギャグを思いついたりするとそうした曲やギャグは、次の日から、そのショーの中の一部に使われる、といった具合に。これは現在のミュージカルが、一般公演になってからは、音楽は勿論のこと セリフからダンス、ちょっとした動きまですべてキチッと決められていて絶対に変更がないような状態になっている事から考えるとかなり変則、と言うことができるだろう。
  しかし、先にも触れたように こうしたショー制作者サイドの貪欲な新しい曲に対する興味は、作家や出版社に”売り込めば、いい曲ならどこかで使ってもらえる”という希望を与えると同時に 事実、数百曲の新曲が、こうした形で次々と世に出ていったのである。
  そしてまた、こうした出版社のプロモーション機能がどんどん高まり、一方ではショー・ビジネス・サイドでそれに負けないほど多くの曲を必要とし、いいものであれば次から次と使ってゆく、という現象は、当然のことながら、才能のある、ヒット・ライターを何人も生み出すのである。
  ティン・パン・アレイという言葉と常に一緒に語られる、ハリー・フォン・ティルツァー、上に書いたようなことから、1905年からわずか7年間の間に30ほどのブロードウェーのミュージカルで 実に100曲以上の曲が使われる、という人気ぶりを示しているジェローム・カーン、「By The Light of The Silverly Moon」などのヒットを書いているガス・エドワーズ、コニー・フランシスの大ヒットで有名な「Who's Sorry Now」などで知られるテッド・スナイダー、そしてハリー・フォン・ティルツァーの後を継ぐ形でティン・パン・アレイのリーダー格となる、アーヴィン・バーリン…といったライターは、みなこうした時期に大活躍しだすのである。