Vol.18 ラグタイム・ミュージックで迎えた黄金時代

こうもう一つのシンコペーションの革命、ロックン・ロールの登場は、ティン・パン・アレイの存在そのものに影を投げかけたが、シンコペーションの魅力を初めて一般の人々に強力に伝えたラグタイム・ミュージックは、ティン・パン・アレイの隆盛に大きな役割を果たしたのである。
  ある意味に於てティン・パン・アレイは、ラグタイム・ミュージックで一つの黄金時代を迎え、ロックン・ロール・ミュージックでその衰退への道をたどった、ということができるのではないかと思う。
  このラグタイム・ミュージックが、音楽産業に登場し出したのは1890年代だった。そして1900年頃には、あちこちで少しずつ聞かれるようになり、1910年代には、ティン・パン・アレイ楽曲製造工場から生み出されたものとしては、最も多くの人に好まれたポピュラー・ソングのスタイルとなり、アメリカ中が、まるでラグタイム・ミュージックに狂ったようになったのである。
  14丁目のユニオン・スクエアー付近にティン・パン・アレイがあった頃(1900年以前)、ラグタイムは、時々、トニー・バクスターのミュージック・ホールで開かれる程度だった。そして時として気の向いた出版社が、そうしたラグタイム・ミュージックの譜面を発行してみる、という程度だった。
  このラグタイム・ミュージックの曲を初めて新たに書いて譜面として出した最初のアーティストは、映画「スティング」の中で この映画の音楽監督だったマーヴィン・ハムリッシュが使った事で 一躍有名になった、ミズリー州生まれの黒人ピアニスト、スコット・ジョプリンだった。スコット・ジョプリンは、「Maple Leaf Rag」を初めとする数多くのピアノ・ラグのスタンダートとなっている曲を生み出した他、全曲ラグタイム・ミュージックで作られたオペラ、「Treemonisba」の音楽を担当したり、とラグタイム時代の代表的存在となるような、素晴らしい仕事を残している。
  こうしたスコット・ジョプリンなどに代表されるピアノ・ラグはやがてヴォーカルものの曲にもその特色が取り入れられ、1899年にジョー・E・ハワードの書いた「Hello, My Baby」(人によっては、この曲が、ラグタイム・ミュージックの最初の代表曲である、と説えている)、そして3年後の1902年にヒュー・キャノンによって書かれた、(そして現在でも今尚ポピュラーな存在である)「Bill Bailey, Won't You Please Come Home?」の大ヒットにより、ラグタイム・ミュージックは、単なるインストゥルメンタル・ミュージックの一つのスタイルであったものから、ポピュラー・ミュージックのメイン・ストリームとなるのである。
  この「Bill Bailey, Won't You Please Come Home?」が生まれた裏には、面白いエピソードがある。それはこの曲の作者、ヒュー・キャノン(彼は後にアルコール中毒のためにミシガン州のウエイン・カウンティの療養所でみじめな晩年を過ごすことになるのだが…)が、ある日の夜遅く、家を気の強い妻に締め出された黒人の友人、ビル・ベイリーと出会い、”数日間、ホテルにでも泊まっていれば、奥さんも反省して『どうか家に帰って来て下さい』と頼むに違いないから”と ホテル代を渡してアドヴァイスした事実をもとにして作っている、ということだ。果たしてヒュー・キャノンの考えた通り、ビル・ベイリーの奥さんがの方が折れて”ビル・ベイリー、家に帰って来ませんか?”と言ったか、どうかは定かではないが「Town Topics」というミュージカルの中でジョン・クイーンによって歌われた「Bill Bailey」は、アッという間にビッグ・ヒットとなり、あちこちで歌われ出すのである。
  エラ・フィッツジェラルドのヴォーカルを思い浮かべる人も多いだろう。