Vol.21 もう一つの波紋、ブルース・ミュージック
そしてラグタイム・ミュージックの起こしたもう一つの波紋、それがブルース・ミュージックだ。
前にも書いたように、ラグタイム・ミュージック自体、黒人音楽に端を発しているものだが、このラグタイム・ミュージックの爆発的人気は、ティン・パン・アレイの注目の目を黒人音楽にも向けさせるに充分のものだった。
ブルースを黒人の恵まれない生活を自ら慰める悲しみの歌から、ニュー・オルリーンズのジャズ・ミュージシャンのプレイの中のインプロヴィゼーションの中に取り入れられるという経過を経て、ティン・パン・アレイが最初の商品として送り出したのは、W・C・ハンディの「The Memphis Blues」で、1913年のことだった(実際は、この曲は1909年に行われたテネシー州メンフィス市の市長選挙の時、候補者の1人だった、エドワード・H・クランプを応援していたW・C・ハンディがクランプに黒人票を一票でも多く取らせよう、と黒人的に受け入れられる要素を盛り込んで作ったキャンペーン・ソング「Mr.Crump」という曲が原曲となっているのである。この「Mr.Crump」はメンフィス中知らない者のない大ヒットとなり、その事もあって、エドワード・クランプは市長に当選している。1912年、ハンディはこの曲を、ピアノ曲に書き直し、「The Memphis Blues」と名付け、自分の費用で楽譜の出版をしたが、翌年テオロン・A・べネット・カンパニーというニューヨークの出版社が、50ドルで全権利をハンディから買い取り、ジョージ・A・ノートン・べネットの新しい詞を付けて新しい楽譜を発行し、大ヒットとなったのである)。
「The Memphis Blues」は大ヒットとなり、譜面を発行したテオロン・A・ベネット・カンパニーは多額の収益を上げることが出来たがハンディの手元には、ほんのわずかのお金しか入って来なかった。彼は次のブルースを書かなければならなかった。彼は自分の記憶の倉庫から、題材としてふさわしいイメージを取り出してみたが、中でもピッタリ、と思われたのが、灯のついたセント・ルイスのサロンの前に立ちずさんで、何でもいいから食べ物がないか、と望んでいるような男の姿だった。
言うまでもなく、これが「セント・ルイス・ブルース」である。このハンディの新しいブルース・ナンバーは1914年に、ハンディとハリー・ペースというパートナーがメンフィスに作った出版社から楽譜を出版されたが、最初は殆んど注目される事なく、むしろ、この曲より後に作られた「Beale Street Blues」や「The Turner Blues」といった曲の方が、少なからず脚光を浴びていた程だった。
しかし、それから間もなくして、ハンディは、自分の出版社をメンフィスからニューヨークに移し、「セント・ルイス・ブルース」のプロモートを始めた途端、この曲は強力な生命力を発揮し出すのである。まず、ソフィー・タッカーがヴォードヴィルで歌い、次いでビクター・レコードが、インストゥルメンタルのレコードを出し、ピアノ・ロールが売り出され_といった具合に、ありとあらゆる方法で、この曲は使われ、1958年に彼がこの世を去った時でも、年に25,000ドルの印税をもたらすスタンダード・ナンバーとなるのである。
このハンディによってスタートした28丁目のティン・パン・アレイのブルース・ブームは1917年のヒット「Everybody's Crazy'bount the Blues」というタイトルが言い表わしている状況そのままで、1915年の「Honolulu Blues」から1923年のジョージ・ガーシュインの「Yankee Doodle Blues」、1930年のハロルド・アーレンの「Bye,Bye,Blues」など、数多くのヒット・ソングを生み出すことになるのだ。
前にも書いたように、ラグタイム・ミュージック自体、黒人音楽に端を発しているものだが、このラグタイム・ミュージックの爆発的人気は、ティン・パン・アレイの注目の目を黒人音楽にも向けさせるに充分のものだった。
ブルースを黒人の恵まれない生活を自ら慰める悲しみの歌から、ニュー・オルリーンズのジャズ・ミュージシャンのプレイの中のインプロヴィゼーションの中に取り入れられるという経過を経て、ティン・パン・アレイが最初の商品として送り出したのは、W・C・ハンディの「The Memphis Blues」で、1913年のことだった(実際は、この曲は1909年に行われたテネシー州メンフィス市の市長選挙の時、候補者の1人だった、エドワード・H・クランプを応援していたW・C・ハンディがクランプに黒人票を一票でも多く取らせよう、と黒人的に受け入れられる要素を盛り込んで作ったキャンペーン・ソング「Mr.Crump」という曲が原曲となっているのである。この「Mr.Crump」はメンフィス中知らない者のない大ヒットとなり、その事もあって、エドワード・クランプは市長に当選している。1912年、ハンディはこの曲を、ピアノ曲に書き直し、「The Memphis Blues」と名付け、自分の費用で楽譜の出版をしたが、翌年テオロン・A・べネット・カンパニーというニューヨークの出版社が、50ドルで全権利をハンディから買い取り、ジョージ・A・ノートン・べネットの新しい詞を付けて新しい楽譜を発行し、大ヒットとなったのである)。
「The Memphis Blues」は大ヒットとなり、譜面を発行したテオロン・A・ベネット・カンパニーは多額の収益を上げることが出来たがハンディの手元には、ほんのわずかのお金しか入って来なかった。彼は次のブルースを書かなければならなかった。彼は自分の記憶の倉庫から、題材としてふさわしいイメージを取り出してみたが、中でもピッタリ、と思われたのが、灯のついたセント・ルイスのサロンの前に立ちずさんで、何でもいいから食べ物がないか、と望んでいるような男の姿だった。
言うまでもなく、これが「セント・ルイス・ブルース」である。このハンディの新しいブルース・ナンバーは1914年に、ハンディとハリー・ペースというパートナーがメンフィスに作った出版社から楽譜を出版されたが、最初は殆んど注目される事なく、むしろ、この曲より後に作られた「Beale Street Blues」や「The Turner Blues」といった曲の方が、少なからず脚光を浴びていた程だった。
しかし、それから間もなくして、ハンディは、自分の出版社をメンフィスからニューヨークに移し、「セント・ルイス・ブルース」のプロモートを始めた途端、この曲は強力な生命力を発揮し出すのである。まず、ソフィー・タッカーがヴォードヴィルで歌い、次いでビクター・レコードが、インストゥルメンタルのレコードを出し、ピアノ・ロールが売り出され_といった具合に、ありとあらゆる方法で、この曲は使われ、1958年に彼がこの世を去った時でも、年に25,000ドルの印税をもたらすスタンダード・ナンバーとなるのである。
このハンディによってスタートした28丁目のティン・パン・アレイのブルース・ブームは1917年のヒット「Everybody's Crazy'bount the Blues」というタイトルが言い表わしている状況そのままで、1915年の「Honolulu Blues」から1923年のジョージ・ガーシュインの「Yankee Doodle Blues」、1930年のハロルド・アーレンの「Bye,Bye,Blues」など、数多くのヒット・ソングを生み出すことになるのだ。