Vol.22 社会状況の変化が及ぼす音楽出版社への影響

アメリカのポピュラー・ミュージックの歴史は、ある意味で、白人音楽と黒人音楽の融合の歴史、ということができる。つまり、白人音楽のみの時代から黒人音楽の影響を強く受けた衝撃的な音楽が登場し、そうした黒人音楽の要素が時と共に白人化されてソフトなものになって、やがて当初のエネルギーを失った形だけのものと化してしまい、次の黒人音楽の刺激を受ける、というサイクル・パターンをとっているのである。
  ラグタイム・ミュージックやブルースなども、その一つのケースと言える(もっともアメリカン・ポピュラー・ミュージックに黒人音楽の影響が出たのは、これが最初ではなく、フォスターの音楽や、ミンストレルス・ショーなども、多分に黒人音楽のファクターを取り入れていたのである)。
  そして、こうした事柄が、大体何も社会に変化のない時に起る事はなく、決って世の中が大きく動いている時、大きく変化しようとしている時に起っている(これはロックン・ロールの登場や1960年代後半のブルース・ロックの抬頭、といった白人音楽への黒人音楽の大きな参加、という事実と、その当時のアメリカの社会状況を考えれば、容易に納得できる事であろう)。
  このラグタイム、ブルースといった音楽の登場した1910年から20年代というのも、そうした例に洩れず、頂度アメリカが国家として強力になり、第1次世界大戦、そして、それに続く世界恐慌、といった事件がたて続けに起る、揺れ動く時期だったのである。
  そしてまた、当然の事ながら、そうした世の中の変化は、音楽そのものだけでなく、音楽を扱っている音楽出版社そのものにも、大きな変更を余儀なくするのである。
  その一つは、地理的な変化である。14丁目のユニオン・スクェアから28丁目の5番街とブロードウェーの間に中心地を移していたティン・パン・アレイは、第1次世界大戦の直後あたりから、次々と、よりアッパー・マンハッタンに移動を始めたのだ。
  理由は、前回の移動と同じく、彼らの重要な顧客である、劇場が次々と、42丁目から50丁目のブロードウェーを中心とした、地域に移ったり、新しく作られたりして、ニュー・ヨークのエンターテイメントのセンターが、変わったことである。アーヴィン・バーリン・ミュージック、レオ・フェイスト、レミック__と大手が次々と、この新しいエンターテイメント・センターの傍らにオフィスを移動させ1920年代の半ばには、完全にティン・パン・アレイは、この42丁目から50丁目までのブロードウェーを中心とした一帯の音楽出版社群を指す代名詞となるのだ。言うまでもなく、その象徴的建物が、ブロードウェー通り1619番に建てられた、ブリル・ビルディングである。この灰色のコンクリート作りのビルディングに、多くの新しい音楽出版社はオフィスを求め、この後、ブリル・ビルディング、という言葉自体が、ティン・パン・アレイの代名詞の役割りを果たすことになる(このビルは現在でも存在していて、昔程ではないが、依然として多くの出版社がオフィスを持っている)。
  また、もう一つの変化は、1920代の半ばには、殆んどヴォードヴィルは絶滅同様の状況になり、バーレスクも第一次世界大戦後の恐慌による不況で失った地位を二度と取り戻すことなく、消え去り、アメリカのショー・ビジネスの主流は、ブロードウェーのミュージカルが占める、という状態になっていた、ということである(この事がまた、ティン・パン・アレイをアッパー・マンハッタンに移動させた大きな理由である事は前に書いた)。1シーズンに40~50の新しいミュージカルがスタートし、日に4つものオープニングのプレミアー・ショーが行われる、といった、ミュージカル・ラッシュが起ったのも、この頃である。

アメリカのポピュラー・ミュージックの歴史は、ある意味で、白人音楽と黒人音楽の融合の歴史、ということができる。つまり、白人音楽のみの時代から黒人音楽の影響を強く受けた衝撃的な音楽が登場し、そうした黒人音楽の要素が時と共に白人化されてソフトなものになって、やがて当初のエネルギーを失った形だけのものと化してしまい、次の黒人音楽の刺激を受ける、というサイクル・パターンをとっているのである。
  ラグタイム・ミュージックやブルースなども、その一つのケースと言える(もっともアメリカン・ポピュラー・ミュージックに黒人音楽の影響が出たのは、これが最初ではなく、フォスターの音楽や、ミンストレルス・ショーなども、多分に黒人音楽のファクターを取り入れていたのである)。
  そして、こうした事柄が、大体何も社会に変化のない時に起る事はなく、決って世の中が大きく動いている時、大きく変化しようとしている時に起っている(これはロックン・ロールの登場や1960年代後半のブルース・ロックの抬頭、といった白人音楽への黒人音楽の大きな参加、という事実と、その当時のアメリカの社会状況を考えれば、容易に納得できる事であろう)。
  このラグタイム、ブルースといった音楽の登場した1910年から20年代というのも、そうした例に洩れず、頂度アメリカが国家として強力になり、第1次世界大戦、そして、それに続く世界恐慌、といった事件がたて続けに起る、揺れ動く時期だったのである。
  そしてまた、当然の事ながら、そうした世の中の変化は、音楽そのものだけでなく、音楽を扱っている音楽出版社そのものにも、大きな変更を余儀なくするのである。
  その一つは、地理的な変化である。14丁目のユニオン・スクェアから28丁目の5番街とブロードウェーの間に中心地を移していたティン・パン・アレイは、第1次世界大戦の直後あたりから、次々と、よりアッパー・マンハッタンに移動を始めたのだ。
  理由は、前回の移動と同じく、彼らの重要な顧客である、劇場が次々と、42丁目から50丁目のブロードウェーを中心とした、地域に移ったり、新しく作られたりして、ニュー・ヨークのエンターテイメントのセンターが、変わったことである。アーヴィン・バーリン・ミュージック、レオ・フェイスト、レミック__と大手が次々と、この新しいエンターテイメント・センターの傍らにオフィスを移動させ1920年代の半ばには、完全にティン・パン・アレイは、この42丁目から50丁目までのブロードウェーを中心とした一帯の音楽出版社群を指す代名詞となるのだ。言うまでもなく、その象徴的建物が、ブロードウェー通り1619番に建てられた、ブリル・ビルディングである。この灰色のコンクリート作りのビルディングに、多くの新しい音楽出版社はオフィスを求め、この後、ブリル・ビルディング、という言葉自体が、ティン・パン・アレイの代名詞の役割りを果たすことになる(このビルは現在でも存在していて、昔程ではないが、依然として多くの出版社がオフィスを持っている)。
  また、もう一つの変化は、1920代の半ばには、殆んどヴォードヴィルは絶滅同様の状況になり、バーレスクも第一次世界大戦後の恐慌による不況で失った地位を二度と取り戻すことなく、消え去り、アメリカのショー・ビジネスの主流は、ブロードウェーのミュージカルが占める、という状態になっていた、ということである(この事がまた、ティン・パン・アレイをアッパー・マンハッタンに移動させた大きな理由である事は前に書いた)。1シーズンに40~50の新しいミュージカルがスタートし、日に4つものオープニングのプレミアー・ショーが行われる、といった、ミュージカル・ラッシュが起ったのも、この頃である。