Vol.24 ティン・パン・アレイの基本的姿勢を変えた、レコードの抬頭

こうした事と同時に、もう一つ新しい事態が業界に起こっていた。それは、単にティン・パン・アレイにより多くの法律的問題を持ち込み、弁護士の仕事を多くした、というばかりでなく、ティン・パン・アレイの基本的姿勢を変え、音楽業界を構造的に新しい仕組に造り変えてしまった、レコードの抬頭である。
  1877年の12月15日にトーマス・エディソンによって発明されたレコードは、当初、商業用としては殆んど注目されず、わずかに目先のきいた音楽出版社が自社の曲のプロモーション用に1800年代の終りに用いていたのが目立つ程だった。
  1903年までレコードそのものがアーティストから子供のオモチャ扱いをされていた。
  ところが、1903年にヴィクター・トーキング・マシーン・カンパニーが、イギリスのグラモフォン&タイプライター・カンパニーを買収した事で、こうした事情は一変してしまったのである。
  と、いうのは、グラモフォンがエンリコ・カルーソーが1902年にレコーディングした10曲のアリアの原盤権と、カルーソー自身の録音専属契約を持っていて、それが、この買収でヴィクターに移り、1903年、始めてカルーソーのレコードがアメリカでも発売され、爆発的な大ヒットとなったからだ。そしてまたこのヒットはレコードというものがビジネスとして充分利益をもたらすものである、という事を示した最初のものであると共に、レコードの芸術的価値について、それまで多くの人々の持っていた認識を大幅に変えさせる役割りも果たしたのである。
  このヒット以来、ポピュラー・シンガーは勿論の事、オペラのスターなど、あらゆる音楽界の大物がレコーディングし始めるようになったのだ。
  こうして、第1次世界大戦の終った1918年頃までには、エディー・カンター、アーネスト・ボール、ファニー・ブライスなど、多くのビッグ・アーティストが、レコードを通じてアメリカ家庭の居間に入り込み、それと反比例して、人々は譜面を買って来て、居間のピアノでそれを弾きながら家族や、仲間と唄う、という事が少なくなっていったのである。
  1910年頃は夢だった100万枚のレコード・セールス、という事が、1920年のポール・ホワイトマンの200万枚の売り上げを達成した「Whispering」と「The Japanese Sandman」の両面ヒットを筆頭に現実のものとなり、1920年代の半ばには年間1億3千万枚ものレコードを売り上げる、ビッグ・ビジネスに成長している。
  一方、対象的に譜面の売れ行きは減り出し1920年代に入ると、2~30万部の売り上げを上げる譜面は、ヒットの部分に入り、100万部以上売れる譜面というのは、極端に少なくなり、やがて、そうした100万部以上売れる譜面が出る事の方が、一つの特異現象になってしまう程の様変わりをするのである。
  ティン・パン・アレイの姿勢がシート・ミュージックからレコードに向き、レコード会社という新しいビジネスの登場によって、音楽業界の構造が根本から変えられた訳だ。
  こうした事が何故、ティン・パン・アレイに多くの弁護士を参入させることになったのだろうか?答は簡単である。エンリコ・カルーソーのレコードの大ヒットした1903年当時アメリカの著作権法は、こうした録音物の登場を想定していず、レコード会社も自動ピアノ会社も、これといった法律による印税の支払いを出版者に対して規制されていなかった事、そして、1906年に最高裁が、こうした会社は、何ら余分な支払いをする事なく、彼らが望む曲を自由に録音し、ピアノ・ロールとして使用してもよい、という判決を下している、という事があった。