Vol.25 レコード時代に入ったティン・パン・アレイ

実際、このレコードや、自動ピアノといった新しい著作権の使用形態が生じた1900年代初期の著作権法には、こうした、いわゆる機械的録音に関する規程がまったく入っていなかったのである。
  そしてまた、前にも書いたが、当初、音楽出版者は、レコードが登場した時、自分たちの出版している譜面を売るための一つのプロモーションの手段として、これを使っていた程度で、レコードそのものを売って、そこから印税を取る、という発想には至らなかったのだ(逆にいえば、譜面の売り上げが巨大なもので、出版者はその売り上げだけで充分ビジネスが成り立ったのであろう)。
  しかし、1903年にカルーソーのレコードがヒットし、多くのアーティストがレコーディングしだすと、様子が一変した。
  1906年の音楽出版者と、自動ピアノ製造者との法律戦争は、こうした変化に音楽出版社が対応し、何とか使用料を、こうした“カン詰”音楽からも取りたい、とする音楽出版社と、これまで通り無料で使用したい、という自動ピアノ会社の訴訟だったが、最高裁は、“使用料を払うことなく自動ピアノ、レコードなどで楽曲を自由に使用してよい__”という判決を下したのだ。
  これに対して、音楽出版者はウィットマーク社を中心にして結集し、ネイサン・バーカン弁護士を代表として、ワシントンに対し大きくアピールする、という作戦がとられた。
  彼らの議会に対する言い分は、こうだった“現在の著作権法が作られた時には、レコードや自動ピアノといったものは、聞いたことも、考えられたこともなく、従って、この法律の中には、こうした事に対して作家を守る条項が何もない。現在のように何千枚のレコード、自動ピアノのロールといったものがアメリカ中に次々と売り出される、ということは、人々が譜面を買わなくなることであると同時に、作家の得られるべき利益、及び出版社の利益を不当に圧迫している__だから新しい時代に即した著作権法を作るべきである__”
  ビクター・ハーバードなどの人の心を動かす説得などが効を奏して、結局、ティン・パン・アレイの要求は1909年、時の大統領、テオドール・ルーズヴェルトがサインして、新しい著作権法として成立する、という形でかなえられたのである。
  しかし、音楽出版社は、この新しい著作権法に必ずしも満足していなかった。と、いうのは、この新しい法律は、レコードの片面1曲に対し2セント、一つのピアノ・ロールに1曲楽曲を使用するに当って2セント、を、それぞれ使用者が権利者(音楽出版社)に支払う、という事を規程していたのだが、ティン・パン・アレイは、1曲2セントよりはるかに多くの額を要求していたし、法律でも、もっと多く支払うことを定めてくれる、と期待していたからだ(結局アメリカの録音印税は、1978年に新しい著作権法が出来て1曲3セントに増額されるまで、実に70年近くもの間、1曲2セントという録音印税がまかり通っていた事になる。日本でも10年程前までは1曲7円20銭―当時の為替レートで2セント―というアメリカ並みの使用料だったが現在ではレコードの小売り価格の約25%―約13円―の録音印税を1曲あたりとっている)。
  だが、そうした不満はあったものの(この不満も、実際は、間もなく、レコードの売り上げが急カーブを描いて上昇して行くに従って、録音使用料収入がふえ、それと反比例して何となくウヤムヤになってしまうものであるが__)、とに角、ティン・パン・アレイはレコード時代に入って、それに即応した法律を作り出す事に成功したのである。ネイサン・バーカンなど、優秀な著作権専門の弁護士を誕生させるという、事と並行して。