Vol.27 ASCAPの誕生による波紋
ASCAPというアメリカの作曲家、作詞家、出版社の権利(この際は特に演奏権)を守る組織は出来上がった。
しかし、単に組織が出来たからといって、それで問題が解決した訳ではない。それまで無料で使えたものを、急に権利団体が出現して、“今日から無料では使えない!!”と宣言しても、使用者の方はその要求を黙って受け入れる訳がないのは当然だからである。ASCAPの誕生は小さな波紋を、こうしたタダで楽曲を演奏使用している、レストラン、ナイト・クラブ、キャバレー、ダンス・ホールといった場所の経営者に与えはしたが、彼らはまったく無視する、という態度で、これらを実体のないものとしようとしたのだ。
そこでASCAPの顧問弁護士となった、ネイサン・バーカンは、“この事態を確決するためには、判例で、1909年の著作権法が演奏使用によるものも、著作物の保護の対象になっている事を示させるしかない__”と、訴訟を起す事を決めたのである。
ASCAPの首脳陣が集まって、慎重に準備が進められた。何時、どこで、どの曲を対象にして訴訟を起すか、という事を、どういう組合せにしたら、最も効果的に、しかもASCAPサイドが裁判に勝てるようになるかといった要素も併せて考えながら決定していったのだ。
この結果、そこが非常に有名であり、客もよく入っているし、オーケストラの演奏するサロンがあり、食事のバック・グラウンド・ミュージックとしてポピュラー・ミュージックが演奏される__という他の多くのレストランと同じシステムをとっている、という事情から、ブロードウェーの42丁目と43丁目の間にあった、スタンリーズ、というレストランが相手に選ばれた。
無断で演奏されている、とする対象の曲はなるべく多くの人が知っていて、“ああ、あの曲か?”“えっ、あんな有名な曲でも演奏する時には使用料を払わなければいけないのか__”といったインパクトを与える曲で、尚かつ、ASCAPのメンバーの作った作品という事から、スタンリーズを内偵した結果ASCAPの副会長でもあるビクター・ハーバードの作曲した「スイートハート」の抜粋が毎日演奏されている事をつきとめ、この曲を訴状に載せる曲目と決めたのである。
こうして、“1915年の4月1日の晩、スタンリーズは、ビクター・ハーバードの「スイートハート」を、作家或は出版社、或は彼らの演奏権に対する代理人たるASCAPのいずれ許可もなしに演奏した__”としてスタンリーズの営業者はビクター・ハーバードなどの代理人、ネイサン・バーカンによって訴えられたのだ。
双方の弁護士が、それぞれの言い分を主張し合ったが、大一審は、被告スタンリーズ・サイドの、“客は音楽を聞きにくるのではなく、食事をしにスタンリーズに来るのである。そしてまた、こうしたレストランに於ける音楽演奏は儲けるためにやっているのではない、何故なら、音楽演奏があるからといって入り口で特別料金などをとっていない__”という言い分を100パーセント判事が取り、原告の主張を退けたのである。
ネイサン・バーカンなどの抗告に対して高等裁判所も下級裁判所の判決を支持し、彼らは再び敗訴の憂き目にあったのである。
だが彼らはくじけなかった。高等裁判所の判決が出るとすぐ、上告したのだ。
1917年の1月22日、アメリカ最高裁の判事オリヴァー・ウエンデル・ホームスは、最高裁は、下部の二つの裁判所が下した、この件に対する判決をひっくりがえした事を告げた。
遂にアメリカの裁判所は、楽曲の無断使用を禁じ、何らかの対価が支払われるよう保護されるべきである事を認めた。
しかし、単に組織が出来たからといって、それで問題が解決した訳ではない。それまで無料で使えたものを、急に権利団体が出現して、“今日から無料では使えない!!”と宣言しても、使用者の方はその要求を黙って受け入れる訳がないのは当然だからである。ASCAPの誕生は小さな波紋を、こうしたタダで楽曲を演奏使用している、レストラン、ナイト・クラブ、キャバレー、ダンス・ホールといった場所の経営者に与えはしたが、彼らはまったく無視する、という態度で、これらを実体のないものとしようとしたのだ。
そこでASCAPの顧問弁護士となった、ネイサン・バーカンは、“この事態を確決するためには、判例で、1909年の著作権法が演奏使用によるものも、著作物の保護の対象になっている事を示させるしかない__”と、訴訟を起す事を決めたのである。
ASCAPの首脳陣が集まって、慎重に準備が進められた。何時、どこで、どの曲を対象にして訴訟を起すか、という事を、どういう組合せにしたら、最も効果的に、しかもASCAPサイドが裁判に勝てるようになるかといった要素も併せて考えながら決定していったのだ。
この結果、そこが非常に有名であり、客もよく入っているし、オーケストラの演奏するサロンがあり、食事のバック・グラウンド・ミュージックとしてポピュラー・ミュージックが演奏される__という他の多くのレストランと同じシステムをとっている、という事情から、ブロードウェーの42丁目と43丁目の間にあった、スタンリーズ、というレストランが相手に選ばれた。
無断で演奏されている、とする対象の曲はなるべく多くの人が知っていて、“ああ、あの曲か?”“えっ、あんな有名な曲でも演奏する時には使用料を払わなければいけないのか__”といったインパクトを与える曲で、尚かつ、ASCAPのメンバーの作った作品という事から、スタンリーズを内偵した結果ASCAPの副会長でもあるビクター・ハーバードの作曲した「スイートハート」の抜粋が毎日演奏されている事をつきとめ、この曲を訴状に載せる曲目と決めたのである。
こうして、“1915年の4月1日の晩、スタンリーズは、ビクター・ハーバードの「スイートハート」を、作家或は出版社、或は彼らの演奏権に対する代理人たるASCAPのいずれ許可もなしに演奏した__”としてスタンリーズの営業者はビクター・ハーバードなどの代理人、ネイサン・バーカンによって訴えられたのだ。
双方の弁護士が、それぞれの言い分を主張し合ったが、大一審は、被告スタンリーズ・サイドの、“客は音楽を聞きにくるのではなく、食事をしにスタンリーズに来るのである。そしてまた、こうしたレストランに於ける音楽演奏は儲けるためにやっているのではない、何故なら、音楽演奏があるからといって入り口で特別料金などをとっていない__”という言い分を100パーセント判事が取り、原告の主張を退けたのである。
ネイサン・バーカンなどの抗告に対して高等裁判所も下級裁判所の判決を支持し、彼らは再び敗訴の憂き目にあったのである。
だが彼らはくじけなかった。高等裁判所の判決が出るとすぐ、上告したのだ。
1917年の1月22日、アメリカ最高裁の判事オリヴァー・ウエンデル・ホームスは、最高裁は、下部の二つの裁判所が下した、この件に対する判決をひっくりがえした事を告げた。
遂にアメリカの裁判所は、楽曲の無断使用を禁じ、何らかの対価が支払われるよう保護されるべきである事を認めた。