Vol.28 ASCAPが強力な組織として確立

“いずれにせよ、(そうしたレストランやクラブが)オーケストラを雇っている、という事の目的は利益であり、この事だけで充分演奏される楽曲が何らかの対価を得るばきである、とする事ができる__”
   というホームス判事の、歴史的名言と共にASCAPの立場は強くなり、その後の60年以上のASCAPの活動の礎石を獲得したのである。
  が、現実的には、ASCAPが設立された時より、ほんの一歩の前進を見た、というだけで、ASCAPが強力な組織として確立し利益を生み出す団体となるまでには、もう数年程、忍耐とフラストレーションの交互する大変な日々を過ごさなければならなかった。
  と、いうのは、法律的にはASCAPのに分がある、という事は判っていたのだが、レストランやキャバレー、ダンス・ホールなど、こうした音楽を演奏する場所のオーナーは、あらゆる小さな抜け穴、いいがかりの種などを見つけては、裁判沙汰に持ち込み、タダで使う事を正当づけよう、という作戦に出たのである。彼らの言い分は、永い間こうした音楽をタダで使用できたのだから、それは既得権として認められるべきものだ、というものだった。
  この第一段階の作戦が認められないとなると、使用者側は次の作戦を打ち出して来た。そして、この作戦は少なからぬ打撃をASCAPに与えたのである。
  その作戦というのは、“もし音楽の演奏使用料をどうしても支払え、というのであれば当然それだけ店のトータル支出がふえるのであるから、その分をオーケストラの編成を少なくしたり、あるいは、これまでレギュラーで入っていたバンドを一切なくしたり、そうした音楽を演奏しないようにする__”という表明をしたり、中には実際にそうした処置をとるレストランやキャバレーが出て来るというものだった。
  この事はまず、そうした場所で演奏していたミュージシャンに今後の生活の心配をさせる、というプレッシャーをかけるのに充分な説得力を持っていた。解雇されたミュージシャンや、次は自分の番かも知れない、と心配するミュージシャンは、この事実をミュージシャン・ユニオンの大きな問題としてとらえ遂には、ミュージシャン・ユニオンの会長からASCAPに対して、“もし、このままASCAPがレストランやキャバレーなど、自分たちミュージシャン・ユニオンのメンバーが職を得ている場所での演奏に対して、相変わらず演奏使用料を要求し続けるなら、我々は今後一切、ASCAPに所属している出版社、作家の曲を演奏しない__”という申し入れをさせる、という事にまで発展していったのである。
  音楽出版業界はパニックに襲われた。あわてふためいた音楽出版社の何社かは、この申し入れを見ると、急いでASCAPを脱退し“我々はASCAPに所属していません。だから我々の管理している楽曲は一切タダで使えます”という広告を出したりする、いわゆる“抜け駆け”をする、という行動をとったのである。
  この戦いは何年もの間続けられた。ASCAPはヘラクレスと戦っているような無力感を時として味わいながら、自分たちの音楽がタダで使われている事に対して、使用料を要求する、という作業を続けたのだ。そして、徐々に、ゆっくりとではあるが、最初の店がASCAPと契約を交し、次いで2番目の店が、というように、段々とASCAPと和解するところがふえ、1921年には6000のホテル、レストラン、キャバレー、劇場などが、ASCAPと契約し、ASCAPに、そのメンバーの権利を持っている楽曲の使用料を支払う事になったのである。この手のASCAPの得た使用料総額は80,000ドルだった。