Vol.29 BMIの誕生

翌1922年にはASCAPは10万ドルを越える使用料を集め、続く1923年には20万ドル、と演奏使用料の額は年と共にふえ始めた。そして、そのまた次の年の1924年には、それまで、“映画を観に来るお客は、映画そのものを観たくて来るのであって、中で演奏されている音楽を聞きにくるのではない__”という理由から使用料を支払うことに反対していた映画業界が裁判で敗れ、結局ASCAPの契約者となり、続いて、これまた業界の“人々に対する公共サーヴィスなのだから、タダで音楽を放送してもいいはずだ__”という理由を旗印にした数年間にわたる強い抵抗と、政治工作による反対があったもののラジオ局も営業収入に応じたパーセンテージをASCAPに音楽の使用料として支払う事に同意させられ、殆んどの音楽使用者はASCAPと契約を締結する、という状況になったのである。
  こうした結果、1930年代の初期にはASCAPの徴収する演奏使用料は2~3百万ドル巨額なものに上るようになり、1937年にはほぼこれが2倍になる、という素晴らしい伸びを続けることになる(このスピードはその後もほぼ緩むことなくキープされ、1977年度のASCAPの徴収額は1億ドルを越えるまでになっている。わずか50年と少しの間に、ASCAPだけで集める演奏使用料だけでも1,200倍以上になった訳だし、これに後述するBMIなどの集めている演奏使用料を含めると、1921年頃の2,000倍以上の演奏使用料が作曲家、作詞家、音楽出版社に1977年の分として支払われているのである)。
  1937年で、ASCAPの徴収した金額の62%が放送局から、21%が劇場や映画館から、そして残りがホテル、ダンス・ホール、ナイト・クラブetc_といった場所からの収入、といった割合になっていた。
  この数字からも判る通り、ASCAPの収入に於けるラジオ局の位置は非常に大きなものとなっていた。そして、この巨額の使用料と、ASCAPが演奏使用料を徴収する団体としては独占企業である、という事から、ASCAPは次の新たな問題に巻き込まれるようになるのである。
  それが、現在ASCAPと勢力を競っている演奏権団体BMIの誕生である。
  事の起りは、1940年に、放送者連盟との5年間の契約が終了したASCAPが、新たな契約として、年間900万ドルの使用料をラジオ局に要求したのに端を発している。この数字はそれまでのラジオ局の1年間に支払っていた金額の倍、というものだったのである。ラジオ局のおエラ方たちは、このASCAPの要求にビックリすると同時に、(時代の趨勢という、ある部分増加するのは止むを得ない、という事は彼らも理解していたのだが、あまりの急激なアップに驚いたのだ)独占企業をいいことに、そうした無法な(と彼らには思えたのだ)要求をするASCAPに腹を立て、断固要求を拒否し、契約を結ばない事に決定したのだ。
  そこでASCAPは管理している楽曲の一切を放送させない事で対抗、放送局は著作権のない民謡ばかりを放送する、という処置でこれまた対抗__という争いが行われ、放送業者達は、ASCAPが独占企業(実際は利益を目的とした団体ではないので、企業という言葉は当らないかもしれないが__)でるために、こうした事が起こるのだ―ということから、新たにBMI(Broadcast Music Inc=放送音楽会社の略)という演奏権団体を設立したのである。1941年のことだ。この年、ASCAPも泥沼戦争に終止符を打つべく放送業者に対する要求を年間300万ドル引き下げ、新たな5年間の契約を締結したのである。