Vol.31 ティン・パン・アレイから誕生した多くの作曲家たち

1900年代の初めにアーヴィン・バーリン、テッド・スナイダー、ジェローム・カーン、ガス・エドワース、ジーン・シュワルツ、ジョン・ストロンバーグなど多くの作家を送り出したティン・パン・アレイは、1910年代になっても相変わらず多くの作曲家を誕生させていた。

そして、そうした作家の多くは、1900年代にもそうだったように、作家になる以前にティン・パン・アレイで何らかの仕事をしていた。ピアノ・デモンストレーターだったもの、ソング・プラッガーだったもの、譜面のセールスだったもの、アレンジャーだったもの__といった具合に。しかし、こうしたティン・パン・アレイでのそれぞれの経験は単にメロディーをどう作る、といった基本的なことの他に、どうした曲をどのようにすれば人々がそうした曲を受け入れてくれるのかといったノウ・ハウを知らず知らずに身につける、という結果を生み出し、彼らの作る曲は、ヒットするパーセンテージが高い、という実績を作り上げたのである。

例えば、アル・ジョルソンが1920年に歌って大ヒットした「My Mammy」を初め、1925年にエディ・カンターの歌でヒットした「Yes Sir, My Baby」、1927年のヒット「My Blue Heaven」などを書いているウォルター・ドナルドソンはピアノ・デモンストレイターだった。

後にコニー・フランシスがリヴァイヴァルヒットさせる1923年のヒット「Who's Sorry Now」を書いたハリー・ルビーは、ガス・エドワーズのスタッフ・ピアニスト、ソング・プラッガーとして活躍した後、ハリー・フォン・ティルツアーのソング・プラッガーを経験している。

「I'll Get By」(1930年)を書いたフレッド・アーラート、ビートルズなども演奏する「Ain't She Sweet」(1972年)を書いたミルトン・エイジャーは共に、アーヴィン・バーリンやテッド・スナイダーのアレンジャーをして働いていた前歴を持っている。
アル・ジョルソン、ソフィー・タッカー、エディ・カンターという、当時再考の人気歌手3人を筆頭に多くの歌手が歌ったことで話題となった「For Me And My Gal」を書いたジョージ・W・メイヤーは、いくつかの出版社でソング・プラッガーを経験していた。

また、1931年のヒット曲で、後にバット・ブーンによってリヴァイヴァルする「Love Letters in the Sand」などを生み出しているJ.フレッド・クーツは、最初証券ブローカーになろうと証券会社の事務員として働いていたのに、フトしたきっかけでソング・プラッガーの世界に飛び込み、やがて人の曲をプロモートしているよりは、自分の曲をプロモートした方がいい__と作曲家になっている。

少し変わり種としては、エディ・カンターの5才の娘にヒントを得て書いた「Margie」という曲の作曲者、コン・コンラッドがいる。彼はサイレント・ムービー劇場で伴奏をつけるピアニストとして働いている間に、観客がどういったメロディーに大きな反応を示すかといった知識を得たのだ。

そして、こうした人々が非常に憶え易い素晴らしいメロディーを書く才能に恵まれた人たちであった、とすれば、レミック音楽出版のピアノ・デモンストレーター、ジェロームカーンが音楽を担当したショーのリハーサル・ピアニストなどを体験している、ジョージ・ガーシュインはまさに天才だった。

彼の登場は、1曲もヒット曲を書く以前から、ハリー・フォン・ティルツァー、ジグムンド・ロンバーグ、アーヴィン・バーリンといった大作曲家連から、“驚くべき音楽的才能の持主が現われた__”と注目を集めたのである。