Vol.32 アメリカのポピュラー音楽製造工場

ティン・パン・アレイはアメリカのポピュラー音楽製造工場として、それぞれの時代を反映した音楽を世に送り出していた。例えば1914年にヨーロッパに戦火が起り、第一次世界大戦が始まるや、世の中の人々は、アメリカという国家を改めて見直し、自分たちの国を愛していることを再認識しだしたが、そうした傾向に合せて「America I Love You」とか「Under the American Flag」といった曲が誕生し、ヒットしたことなどはその一例であろう。また、戦線が拡大し、アメリカも参戦するという頃になると、「I Didn't Rise My Boy To Be a Soldier」といった曲や「Don't Take My Darling Boy Away」といった息子を兵隊にとられる世の母親の気持ちを示した楽曲が作り出され、多くの人々の共感を呼んだのもそうである。

そして1918年の11月11日にこの第一次世界大戦が終戦となると、今度は、戦時中の緊張から解かれてホッとすると共に、これまで忘れていた自分のまわりを落ちついて見る気分にさせ、そうしたシンプルなセンチメンタルな雰囲気を持った曲が受け入れられるようになり出したのである(これは1967年のベトナム戦争に起因する学生運動などとシンクロしていたブルース・ロック、サンフランシスコ・グループ・ブーム、といった戦闘的なロック・ブームが1969年から70年にかけての学生運動の終束と共に、カーペンターズの「Close To You」や「We've Only Just Begun」或は、ブレッドの「Make it With You」といった、ソフトでセンチメンタルで詞のテーマも非常に身近かな恋人との関係を歌ったものに変化して来た事と、同様の変化という事が出来るだろう―歴史は繰り返しているのである)。今でもエドムンド・ロス楽団の演奏などで知られている「In My Sweet Little Alice Blue Gown」とかハリ・フォン・ティルツァーの「I'll Be With You in Apple Blossom Time」といった曲が、そうした大衆の好みに応えてティン・パン・アレイから送り出されている。

そして、この戦争からの反動は、あの熱病のような1920年代に受け継がれて行くのである。

その代表的なものが、ダンス・ブームである。

ダンス自体は、第一次世界大戦の以前から非常にポピュラーになり、多くのダンス・バンドが登場し、ヒット曲をダンス・ミュージックから生み出していたし、タンゴやワルツやフォックス・トロットといったリズムも取り上げられていた。

しかし、この第一次世界大戦前のダンス・ブームは、大戦後のダンスに比べれば、何ともおとなしいものだった。この`20年代のダンス・ブームの口火を切った“シミー”と呼ばれるトゥイストを思わせる、からだを震わせて踊るダンスは、当時としては画期的なセンセーションを起すに充分だった。それは、後にロックン・ロールが巻き起したのと同様のショックを与えたのである。そしてこの“シミー”のステップのバックに使われたのがジャズ・ミュージックだった。

だから、1920年代を音楽的に言うとすれば“ジャズ・エイジ”と呼ぶことができるのである。勿論、ここでいう“ジャズ”は、ルイ・アーム・ストロングうあデューク・エリントンといったアーティストによってシカゴやニューヨークで流行するようになった、ニュー・オルリーンズに端を発した本格的なジャズ、というより、こうしたジャズの要素をティン・パン・アレイが適度に取り入れ消化したもの、と言えるものである。

そして、このジャズ、1950年代のロックンロール、それに1970年代のディスコ、と常にダンス・ミュージックは革新的で、大きな衝撃を音楽シーンに与えているのである。