Vol.33 ティン・パン・アレイのジャズ・エイジ
このジャズをバックに体を震わせて踊る、“シミー”と呼ばれるダンスは、最初シカゴのクラブなどでポピュラーになった後ニューヨークのブロードウェーのステージにも登場するようになり、全米に熱病のように拡がっていた。そして1923年から、これまた狂気のような勢いで流行したチャールストン(これもやはりジャズ・ビートの音楽に乗って踊るダンスだった)の登場によって、ダンス・ブームは、ますます大きなものとなっていったのである。
だから、必然的にティン・パン・アレイのジャズ・エイジに於ける特色は、そうしたダンスをするのに必要なファクター、つまりメロディーより、リズムやアクセントに主眼が置かれたものが中心となっていた。そしてまた、そうしたティン・パン・アレイで作られた曲を大きく拡める役目は、それまでの音楽のように歌手ではなく、ジャズ・コンボやオーケストラが努めたのである。この結果、1910年代に音楽出版社の発行した楽譜の表紙には、ソフィー・タッカーやアル・ジョルソンといったシンガーの写真が使われていたのに対して、1920年代になると、有名なバンド・リーダーの写真を用いるものが大半になる、という変化が表われている。
こうしたスター・バンド・リーダーとして最も初めに大きな人気を博すようになったのが、ポール・ホワイトマンである。デンヴァー・シンフォニーのヴィオラ奏者だったポールは、ある日ニュー・オルリーンズ・ジャズの演奏を聞いて以来、クラシック音楽の世界からポピュラー・ミュージックに自分の住む世界を変えてしまったのだ。1917年にポール・ホワイトマン・オーケストラを結成。ピアニストとして備ったフェルド・グローフェの絶妙なアレンジの力も預って、ポール・ホワイトマン・オーケストラの名前は急激に高まった。1920年の150万枚のレコードを売るビッグ・ヒットとなった「Whispering」がその人気を決定的なものにしている。このバンドのメンバーから後年有名になった人たちにはレッド・ニコルス、ジミーとトミーのドーシー兄弟、歌手のミルドレッド・ベイリーそして当時はまったく無名だったビング・クロスビーなどがいる。
こうした、レコードの売り上げやステージの人気の他にポール・ホワイトマンが、その名をもう一つ大きく評価されているのは、彼が1924年の2月12日、ニュー・ヨークのエオリアン・ホールで開いた「All American Music Concert」と名付けられたコンサートで、シリアス・ミュージックとジャズを組み合せた画期的な試みの「ラプソディ・イン・ブルー」を作曲者のジョージ・ガーシュイン自身がピアノを弾いた彼のオーケストラで演奏し、一つのエポックを創り出したからである。天才ガーシュインがジャズを用いて表現した音楽は、いまでも素晴らしい現代音楽の一つとして高い評価を保ち続けているが、今、改めて聞いても、ジャズ・エイジと言われた1920年代をこれ程見事なまでに表現している曲は他にない、とただただ感心させられるだろう。
ポール・ホワイトマンの色々な意味での成功は、同じようなバンドにコンサート・ホールやクラブでジャズの演奏をするチャンスを限りなく作り出した。「ノラ」をヒットさせたヴィンセント・ロペス楽団などは、そうした中でも大きな成功を収めた一つである。
やがて、このジャズは、アメリカのポピュラー・ソングに見られる展型的な変化の方程式に従って、段々スタイルを変え(この変化については次回に詳しく触れるが__)、1930年代に入ると、ドーシー・ブラザース、グレン・ミラー、ハリー・ジェームス、ベニー・グッドマン__といった、いわゆる“スゥインング・ジャズ”の王者たちに率いられたビッグ・バンドの時代になって行くのである。