Vol.35 黄金時代を築いたティン・パン・アレイ

1920年代から30年代にかけて、アメリカのポピュラー・ミュージック・シーンでジャズと共にもう一つ脚光を浴びていたのが、ブロードウエーの劇場で行われるオペレッタやミュージカル・コメディー、あるいはレビューといったものから誕生したヒット曲だった(この頃には既にヴォードヴィル・ショーの数が極端に少なくなっていた)。

次から次へと新しいミュージカルがスタートし、あるシーズンなど、一挙に50もの新らしいショーがオープニングを迎えた程だった。そして、そうした制作数がふえたことと相まって、ステージの構成、技術的なもの、衣装、セリフ、或はユーモア__といったものが急速に洗練されてシャレたものになっていったことが、またそれまで以上に多くの観客を集める__という結果を生み、それが更にロング・ランにつながり(大体100回公演で製作費を回収することが出来、200回公演となると少なからず利益が生まれる。こうしたミュージカルで、300回公演、400回公演といったスマッシュ・ヒットがいくつも生まれているのだ)、そうした利益でまた新しいショーがスタートする、といった素晴らしいサイクルを作り出していたのである。

だから、こうした数多くのショーを常に自分たちの楽曲のプロモーション機関として持っていたティン・パン・アレイは、この1920年代から1930年代前半にかけて、その黄金時代を築き上げるのである。

何しろ、ブロードウエーで成功したショーの中で使われている曲は、必ず誰かによってレコーディングされ、ラジオで放送されたから、譜面の売り上げもレコード・セールスもかなりのものを期待することができるのである。多くのティン・パン・アレイのトップライターたちは、それまでのように、まず譜面を売るために、ヒットしそうな曲を書き、時によっては、出版社のソング・プラッガーが巧く、どこかの劇場のヴォードヴィル・ショーの中で使われるよう売り込むのを待つ、というシステムから、まずミュージカルの全部のスコアと、主題歌ともいうべきメインになる曲を何曲か書く__というように、その作曲プロセスを変えていったのである。

こうした、一つのショーという具体的なイメージの中で曲を書く、という事が作家にとって、何のイメージもないままに次々と曲を作らなければならない事に比べて、どれだけ楽であり、創作意欲を刺激するか、という事は容易に想像がつく。そして、そうしたいい曲が、多くの観客の前で毎日毎日歌われ、しかもそれがレコードとなり、ラジオで何度となく放送されるのである。ヒット曲が生まれるのも当然と言えるだろう。

ティン・パン・アレイを語る時に、忘れてはならないヒット曲の多くは、殆んどこの時代のものであり、そして、それは大体例外なくミュージカルの中の1曲として使われたものである。

例えば、コール・ポーターの「ナイト・アンド・デイ」は1932年の「ザ・ゲイ・ディヴォース」というショーの中の1曲だが、「ナイト・アンド・デイ」のビッグ・ヒットと共に「ザ・ゲイ__」というより“ナイト・アンド・デイ・ショー”と呼ばれる事の方が多くなったりしているのがいいケースだが、それ程でなくても、ジェローム・カーンの「煙が目にしみる」、ジョージとアイラ・ガーシュインの「誰かが私を見つめてる」、「アイ・ガット・リズム」、「魅惑のリズム」などを初めとする多くの曲が、ブロードウェーのショーを一つのチャンネルとして大ヒットとなっている。