Vol.37 ティン・パン・アレイの新しい戦力

もう一つのティン・パン・アレイの出版社の示した、見習うべき動きは、新しい外部からの才能をティン・パン・アレイに取り込んだ、という事である。

前にも書いたように、ブロードウェーのショーがティン・パン・アレイの曲のショウ・ケースとして素晴らしい、となると、ジェローム・カーン、コール・ポーター、アーヴィング・バーリン、ジョージ・ガーシィン__といったティン・パン・アレイのトップ・ライターたちは、競って主な仕事のターゲットをこちらに向け出したのだが、こうなると、逆にもともとティン・パン・アレイとは関係なく、オペレッタの仕事をしていた作家の仕事振りも、ティン・パン・アレイの人々の目に止まるようになり、彼らもティン・パン・アレイの新しい戦力となっていったのである。(特に1920年代になると、オペレッタ自体が時代遅れのシロモノとなり出し、同時にそこを主な仕事場としていた作家が新しい活動場所を求めていた、という事情も大きく作用していたのだが__)

その代表的な作家に、ルドルフ・フリムルとシグムンド・ロンバーグがいる。

ルドルフ・フリムルは、1906年にボヘミアからアメリカに移住してきたクラシック音楽のピアニストだったが、オペレッタで数々のいい仕事をしていたビクター・ハーバードが1911年に出演者とのトラブルで、曲を書かない、という事態になった時、その代役として抜擢されたのがきっかけとなり、以来、いくつかのオペレッタのために、数々の佳曲を書いていた。

しかし、クラシックのピアニストをしていた時代に小品を作曲した時、その譜面を出版してもらっていた、という、クラシック音楽や教則本の出版を主としていたG・シャーマーという音楽出版社にフリムルは、そのまま自分の作曲したオペレッタの曲も出版させていたので、これらの曲は、多くの人に知られる事はなかった。

このルドルフ・フリムルに目を付けたのは多くの作家を見付け出し、育て上げて来た、ティン・パン・アレイのシニセの一つハームス音楽出版のマックス・ドレイフュスだ。1924年に、ハームスがフリムルの曲を出版するようになって以来、彼は「インディアン・ラブ・コール」を初め、多くのヒット曲の作曲者として、その名を一躍有名にしている。

シグムンド・ロンバーグもまたオペレッタで活躍し、これまたG・シャーマーと契約していた作曲家だった(余談になるが、G・シャーマーは、その後、やはりクラシック音楽の関係で、レナード・バーンスタインの作曲した「ウエスト・サイド物語」の出版権も獲得している。ティン・パン・アレイの出版社ではないが、仲々いいセンスを持っている、といえる)。

1915年に「ザ・ブルー・パラダイス」というウィーンを舞台にしたオペレッタを手掛け「アウフ・ヴィーダーゼン」という美しいワルツを出したり、1917年に「ウィル・ユー・リメンバー」を生み出した「メイタイム」というオペレッタのスコアを書いたりしていたが、その存在は、それ程知られてはいなかった。

しかし、1919年にウィットマーク&サンズと契約すると共に、彼のキャリアーも一挙に花を咲かせ出すのである。1921年に彼が音楽を書いて大成功したフランツ・シューベルトの生涯を描いた「Blossome Time」のタイトルそのままに。1924年には「学生王子」、‘26年には「ザ・デザート・ソング」、‘28年には歴史的な名作と言われる「ニュー・ムーン」_といった具合に、それぞれ1年以上は軽く続くショーが次々と生み出されている。そして、こうしたショーの中から「ソング・オブ・ラヴ」、「ディープ・イン・マイ・ハート」、「学生王子のセレナーデ」、「ブルー・ヘヴン」、「朝日のようにさわやかに」等々のヒット曲が誕生しているのである。