Vol.4 一つの新しいノウ・ハウを提供した音楽出版社

ウイリス・ウッドワードが果たした役目として最も直接的なものは、センチメンタル・バラードの代表的な作曲家、ポール・ドレッサーを育て、数々の名曲を世に送り出した、ということがあげられる。そして、間接的なものとしては、初期のティン・パン・アレイの歴史の中で、最も意欲的で冒険心に富んだ、彼の音楽出版社の素晴らしい手本となる、新しい出版社を誕生させる役柄をつとめた、ということを指摘できるのだ。
  後にボブ・ディランの曲の権利に逸早く注目して、それを抑えた他、数々の新しい試みを行って現在のワーナー・ブラザース・ミュージックの基礎となっている、ウィット・マーク&サンズが設立されるキッカケを作ったのが、ウイリス・ウッドワードだったからである。

  このウィット・マーク&サンズの行った数々の試みについては、後に詳しく書く機会を持つつもりだが、この頃設立された出版社の多くが、ウィット・マーク&サンズを中心とする一つのグループとなっている事だけから見ても、彼らが、それまでの出版社とは違った、進歩的なオペレーションを音楽出版ビジネスの世界に持ち込み、それを成功させた、ということが容易に想像できるだろう。
  この活動的な新しい出版社が設立されるキッカケは次のようなものである。ウィット・マーク&サンズの中心人物であるジェイ・ウィットマークは、バラード・シンガーとして、その思い入れたっぷりな歌い方で非常に大きな人気を博していたが、この素晴らしい歌手に目をつけたのが、ウイリス・ウッドワードだった。彼は自分のところの曲をジェイに歌ってもらっていたのだが、ジェイが歌うと、ウイリスの持っているセンチメンタル・バラードは、大きな魅力を発揮し、譜面も大変いい売れ行きを示したのだ。ウイリスは、そうしたヒットの度にジェイに20ドルずつ渡して(これは後のペイオラの非常に初期のスタイルであるが…)、礼をしていたのである。
  ジェイは、こうしたことが何度か重なった時、”これは、他人の曲を歌って、他人だけを儲けさせているのは馬鹿なことだ。自分で出版社を設立した方が何倍かスマートだ!”という結論に達したのだ。

  丁度その頃、彼は、兄弟のイシドールとジュリアスの3人で、西40番街でクリスマス・カードなどを扱う小さな印刷会社をやっていた。体勢は全部揃っていた訳である。しかし、ウィットマーク・ブラザースには、出版する曲がなかったのである。考えた彼らは、その時新聞で大きな話題になっていた、グロヴァー・クリーヴランド大統領が、フランセス・フォルソン嬢と結婚する、という事柄に目をつけ、イシドール・ウィットマークが「プレジデント・クリーヴランドのウェディング・マーチ」という、インストゥルメンタル・ナンバーを作曲し、1886年にホワイト・ハウスで結婚式が行われた時に、”デラックス版”と銘打った、この譜面は、あちこちの楽譜店の店頭を賑わせていたのだ。

  この、必要こそ発明の母、という諺を文字通り地でいった、ウィットマーク&サンズから発売された曲が、一大イヴェントとなったアメリカの大統領の結婚式に合わせて作られた唯一の譜面、ということもあって、「プレジデント・クリーヴランドのウェディング・マーチ」は、大ヒットとなったのである。そして、その後、色々な面で新しい手法を持ち込む、意欲的な出版社、ウィットマーク&サンズは、見事なスタートを切ったのである。音楽出版業界に、”大きなイヴェントに合せて、何かそれ向きのポピュラー・ソングを作って、譜面を出せば、かなりのヒットが期待できる…”という、一つの新しいノウ・ハウを提供しつつ...。