Vol.41 ジョージ・ガーシュインと若い作家達

と、いうのは若い作詞・作曲家たちは、このハームスのパーラーでの社交の時間を自分たちの打合せや、ハームス出版の制作部員や社員のマックス・ドレイフュスとの新しいプロジェクトの相談といったものにも使っていたのだが、なんといっても彼らが期待していたのは、昼過ぎの時間にここにやって来て、自分たちの未発表の作品を演奏し、ジョージ・ガーシュインに聞いてもらうことだったからである。

ジョージ・ガーシュインは、ハームスのパーラーにやってくるすべての人と会った。あたかもそうした人たちがすべて昔からの友だちでもあるかのように暖かく、歓迎しながら__。

そうした、このパーラーにやって来る人々の中の一人に、アーサー・シュワルツという弁護士がいた。彼にとって作曲はほんの気晴らし、といった程度のものだったが、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」に完全に傾倒していて、その主題となるメロディーを一部引用し、詞の方は、もうあかわさまなガーシュイン讃歌となっている曲を作っていた。ある時、この曲をジョージ・ガーシュインの前で弾き出したアーサー・シュワルツは、数小説弾いただけで、「ラプソディー・イン・ブルー」には到底及ばないものであることに気づき、決まり悪さと、恥かしさが一挙に押し寄せてきて、演奏を止めた。しかしガーシュインは、「何か他に君の作った曲はないのかい?」と、優しく声をかけたのである。1928年に弁護士を辞め、作曲家になったアーサー・シュワルツは、「この時のジョージ・ガーシュインの暖かい思いやりとはげましがなかったら、自分が作曲家になっていたかどうか__?」と語っている。

作詞家のハワード・ティーツと組んだアーサー・シュワルツは、「リトル・ショー」というレビューの音楽を手掛け、「Little old New York」などのヒット曲を生んだのをキッカケにして、アッという間に人気作家の仲間入りをし、1931年には「ザ・バンドワゴン」というミュージカル・コメディーの為に、彼の普及の名作と言われている「Dancing in the Dark」や「I Love Louisa」などを書いている。

このハームスのパーラーのジョージ・ガーシュインを中心とする集まりから生まれたもう1人の新人作家にヴァーノン・デュークがいる。

ヴァーノン・デュークは1921年ロシアから新世界を求めてアメリカにやって来たが、その途中、コンスタンティノーブル(現在のイスタンブール)に寄った時、亡命者のためのYMCAがあり、そこでガーシュインの「スワニー」と出会ったのである。それまでクラシックのコンサート用音楽とバレエ音楽の作曲をしていた彼、ウラディミール・デュケルスキーは、この「スワニー」を聞いた時からジョージ・ガーシュインに対する尊敬と、アメリカン・ポピュラー・ミュージックに対する興味を抱くようになったのである。

アメリカに着いて間もなく、彼はジョージ・ガーシュインと会い、お互いにそれぞれの才能を認め合ったのである。ジョージ・ガーシュインは、このラウディミール・デュケルスキーというロシアの作家に、是非ポピュラー・ミュージックを書くことを勧め、名前も、より親しみ易い、ヴァーノン・デュークに変えたのだ。

こうしてガーシュインのバック・アップを得たヴァーノン・デュークは、徐々に知られ出し、1932年には、ブロードウェーのレヴュー「Walk a Little Faster」のために、「April in Paris」を書き、一躍その名前を知れ渡らせている。他には「I Can't Started With You」や「Autumn In New York」、「Love Me Tomorrow」など多くのヒット曲をブロードウェー・ショーに書いている。