Vol.42 ティン・パン・アレイとレコード・ブーム
このヴァーノン・デュークの代表作の一つと言われている「April in Paris」にまつわるエピソードが、当時のティン・パン・アレイを取り巻く状況の一つの変化を的確に語っている、と言える。
つまり、この「April in Paris」がヴァーノン・デュークの代表作と言われるようになった、過程そのものが、一つの“時代”を表現しているのである。
この曲は、最初「Walk a Little Faster」というミュージカルの一曲として1932年に発表され、中のパリのセーヌ左岸のシーンでイヴリン・ホーイという女性歌手によって歌われた。しかし観客も、評論家も誰一人として、この曲が少しでも魅力を持っている、という印象を受けたものはなかった。にもかかわらず、この曲は今でも知られているスタンダード・ナンバーとして残っている。そのギャップを埋めたのがレコードである。この曲はステージでイヴリン・ホーイに歌われた時、彼女の誤った理解の仕方によって表現されたため、本来の曲の魅力を出していなかったのだ。これまでの時代であったら、多分、この曲は、これで終わっていたであろう。もし、もう一度他のショーで使われていた、としても数年後であっただろう。だが、この曲は違っていた。リバティー・レコードという小さなレコード会社のマリアン・チェイスという女性歌手が偶然からこの曲をレコーディングしたからである。レコード会社も歌手もどちらもメジャーではなかったが、このレコードは発売と共に大評判となり、爆発的ヒットとなったのだ。
1920年代の第1回のレコード・ブームに続いて、この時代(1930年代半ば)に、もう一つ大きなレコードのブームが起き出していたのである。そして、出版社にとって、曲を“プロモート”し“ヒット”させる手段としてレコードは、ますます大きな位置を占めるようになってきたのである。
オリジナルな形で発表された時には成功せず、レコードで発表されて大ヒットとなったというケースは、この頃よく起きた現象であった、といえる。例えば、「April in Paris」以上に今でも親しまれているホーギー・カーマイケルの「スター・ダスト」やコール・ポーターの「ビギン・ザ・ビギン」なども、そうした過程を経て、楽曲としてのパーマネントな生命を吹き込まれたのである。
「スター・ダスト」は、最初、ピアノ・ライターとしてホーギー・カーマイケルに作曲された。1927年のことである。しかし、アレンジャーの“もうちょっとスローにした方が_”というサジュッションに従って、スローでよりセンチメンタルなスタイルのイシュアム・ジョーンズのレコードが作られたが、これはまるで成功しなかった。1929年、この曲の出版社であるミルズ・ミュージックは、よりセンチメンタルな雰囲気を強めるよう、これに合った詩をミッチェル・バリッシュに書かせたのである。このヴァージョンは、やがてアーティー・ショーに取り上げられ、彼のレコードで大ヒットするのである。(一つのシングルの、A面にトミー・ドーシー、B面にベニー・グッドマンの演奏による「スター・ダスト」がカップリングされる、という事が行われたりしている)
また「ビギン・ザ・ビギン」は、コール・ポーターが、1935年に「ジュビリー」というミュージカルの為に書いた曲だったが、ショーでは何の評価にもならなかった。しかし、ビクター・レコードが、アーティー、ショーにスィングで演奏した「インディアン・ラヴ・コール」を発表したい、と申し入れた時、“もし「ビギン・ザ・ビギン」をもう1曲としてレコーディングさせてくれるなら_”とアーティー・ショーがこの曲を録音したのだ。この「ビギン・ザ・ビギン」(「インディアン・ラヴ・コール」は評判にならなかった)は200万枚を越えるヒットとなった。