Vol.43 ラジオの登場

こうした1930年代半ばのレコードのブームは、1920年代最初のレコードのブームがそのまま順調に続いた結果起ったものではなく、間に二つの大きなセールスの落ち込み、という谷間を経験した上での、新しい動きから誕生したものである。

勿論そうしたレコード業界(だけでなく、アメリカの全産業にも及んだものだが__)の後退の一つの原因は、1929年10月に起った株式大暴落に端を発した“大恐慌”によるものであることは言うまでもない(この時、ブロードウェーの劇場など殆どが、1/4もお客が入れば“今月はかなり入っているナ__”といった感じで、多くは、客席の1人、1人の顔がハッキリ判る、といった程にまで落ち込んだ、ということである。当然のことながら、ティン・パン・アレイは、こうした不景気にも、それなりの抵抗をして、アーヴィング・バーリンの「Let's have Another Cup of Coffee」や、リチャード・ロジャースとロレンツ・ハート・コンビの「I've Got Five Dollars」といった、世相にマッチした曲を送り出す__といった努力をしていたが__)。が、もう一つ、この以前に、大きなショックを受けているのである。それはラジオだ。

1920年、デトロイト・ニュースとウェスティング・ハウス放送会社が、デトロイトにWWJ放送局、ピッツバーグにKDKA放送局をスタートしたのを皮切りに、民間放送局は全米に、まるで湿った野原にキノコが生え出すのと同様の勢いでふえ出したのである。そして1921年には全米の100万以上の家庭にラジオ番組が入り込み、1926年にはNBC(National Broadcasting Company)が初めて全米のネットワークを完成させ、一つの番組が全米で聞かれる、という事態を誕生させている。

受信機のダイアルをまわすだけで、自分の好きな音楽を(しかもタダで)聞ける、という、このラジオ、というエレクトリック・システムに対して、レコード業界、ティン・パン・アレイは、“こうしたものがストレートに家庭に入り込んでは、レコードや譜面の売り上げが落ちるのではないか?”という恐れを抱いたのだ。なにしろ、こうして出来た小さなラジオ局の作るプログラムの大半がレコードを使うものだったからだ。

そして、彼らの恐れは、ものの見事に適中し、ラジオがブームになると同時に、レコード、譜面とともに急激な売り上げダウンを記し出したのである。(ラジオの一般的になった1921年のレコードの売り上げ高を100とすると、22年は86.8、23年は74.56_と年々下がり、ピークの1925年には実に21年の半分近い、55.72%にまで落ち込んでしまったのだから_)

この結果、ラジオ局とレコード会社、音楽出版社との間に、いくつかの話し合いが行われることとなったが、当然のことながら、両者の利害が一致することはなく、ただいたずらに時を過ごすだけだった。

しかし、この音楽業界とラジオ局の争いは結局、時間が解決することとなった。ラジオが、もの珍しい道具とか、オモチャ、といった地位から大幅に抜け出し、家庭の必需品として、家具の一部のようになると共に、人々の気持ちは、丁度、この永い落ち込みの期間中、レコード業界がラジオに対抗する一つの手段としてレコード・ユーザーに対して張っていたキャンペーンのスローガン、“The music you want when you want it”そのままの方向に向けられ出したからだ。彼らは、ラジオで聞いたヒット曲を、自分の望む時に自分の望むだけ聞きたい、という自分たちの欲求に気づき出したのだ。そして、ラジオで聞いた素晴らしい曲のレコードを求めて、レコード店に足を運ぶ、という傾向を見せ出したのである。1926年、5年ぶりにレコードの売り上げは下降を止め、前年対比18.6%の増(それでも1921年の66%にすぎないが)を見せた。