Vol.44 ティン・パン・アレイとラジオ・スター

人々がラジオで聞いた曲が気に入れば、それをレコード店に買いに行く、という動きが戻ると同時に、ラジオは音楽業界にとって敵であるどころか、非常に有力な力を持ったプロモーション機関であり、レコード・音楽出版業界にとって、なくてはならない存在となるのである。まさに“昨日の敵は今日の友”の諺を地でいっているいい例だ(もっとも、実際に、このラジオと音楽業界のドッキングがレコード・セールス面で大きな動きを見せ出すのは、大恐慌の影響が少しづつ薄らぎ出した1931年以降のこととなるのだが_)。

ラジオが独自のスターを生み出し、そのスターがヒット・ソングを生み出す、という一つの新しいパターンが確立されるようになったのであるから。アーサー・トレイシー、ウィスパリング・ジャック・スミスといった第1期のラジオ・スターに続いて、ミルス・ブラザース、ルディ・ヴァリー、ビング・クロスビー、ケイト・スミス_などの第2期のスターが登場するに及んで、ますますラジオの果す役割りは大きいものになっていった。特に、1931年に始まった日曜の夜に放送される“エディー・キャンターとチェイス&サンボーン・アワー”という番組は、ラジオ番組史上それまで考えられない程の多くの人から聴かれる人気番組となり、ホストのエディ・キャンターはスーパー・スターといっていい程の人気を博していた。

当然レコード会社は、こうしたラジオ・スターと契約して自分のところからレコードを発売できるようにしたり、自分のところのアーティストをラジオ局の人気番組のホストにするよう売り込んだり、という作業を行い、ティン・パン・アレイの音楽出版社は、そうしたビッグ・ラジオ・スターに自分の会社の管理曲を1曲でもその番組の奏で歌ってもらおう、と積極的にプロモーションを行う、という、新しいターゲットを見出した時に音楽業界が起すアクションが起されたのである。

そして彼らラジオ・スターは今やティン・パン・アレイが新曲が出来ると一番先に売り込みを行う相手となり、彼らがその曲を気に入れば、このバリバリにフレッシュな楽曲は翌日の朝にはラジオを通じて全米の家庭で聞かれている、という、一つのパターンが出来上がっていったのである。

エディ・キャンターの「サンタが街にやってくる」やルディ・ヴァリーの「グッド・ナイト・スィート・ハート」といったヒット曲は、こうして生まれたものだ。

勿論、ティン・パン・アレイは、こうしたラジオ・スターに新しい曲だけを売り込んでいたのではなく、スターのキャラクターに合った古い曲をも併せてプロモートして、そういった古い人々に忘れられていた楽曲に新しい命を吹き込む、という作業をすることも忘れなかった。

アーヴィング・バーリンが書き、忘れ去られていたバラード、「Say It Isn't So」や、メイン大学の歌として、大学のキャンパスの外の人は殆んど知らなかった1901年に書かれた「Stein Song」がヒットとなったのは、いずれもルディ・ヴァリーが自分のラジオ・ショーで取り上げたことがその原因であるが、その裏には、こうした音楽出版社の働きがあったに違いない。

しかし、こうしたラジオ・スターの作り出したヒット曲の中で最も典型的なものは、彼らが自分の番組のテーマ・ソングとして取り上げていた曲だろう。何しろ彼らは1日に2回(番組の最初と最後)この曲を歌っていたのだから__。ビング・クロスビーの「When the Blue of the Night Meets the Gold of the Day」、エディー・キャンターの「One Hour with you」ケイト・スミスの「When the Moon Comes over the Mountain」、モートン・ダウニーの「カロライナ・ムーン」__といったヒット曲はすべて、こうしたアーティストのラジオ番組のテーマ曲なのである。