Vol.45 トーキング・ピクチャーの隆盛

1920年代の後半に起った、レコード、ラジオに続く、もう一つのエンターテイメント・インダストリーズのイノヴェーション、トーキング・ピクチャーの隆盛は、ティン・パン・アレイに新しい繁栄をもたらすと同時に、数々の、それまでのティン・パン・アレイが経験しなかった事態をパブリッシング・ビジネスに持ち込んでくるのである。そして、ある意味で、ティン・パン・アレイの崩壊は、この音の出る映画の登場がひきがねとなっている、と言える。

映画とティン・パン・アレイとは、サイレント・ムーヴィーを上映する映画館は、音楽出版社の楽曲プロモーション・マンにとって、またとない活躍場所だった。彼らは競って自分の会社の管理曲を、映画のバック・ミュージックとして使うよう、劇場専属のピアニストに売り込んだり、ソング・スライドを使ってもらったり、映画の上演の合い間に行われるアマチュア・シンガーのコンテストで自社の曲を歌ってもらう__といった様々な方法を通じて__。

やがて、出来上った映画(勿論サイレントの)にヒントを得て、曲が書かれ、それがヒットする、というケースがいくつか出てくるようになり、1918年には初めて、映画のテーマ曲として最初から意図された曲が作られるようになった。ニール・ウイリアムスが作曲したメイベル・ノーマンド主演の「ミッキー」という映画に書かれた同名の曲がそれだ。こうした映画の主題歌は、サイレント映画の時代でも、その映画が上映される劇場では必ずオーケストラ・ピットにいるオーケストラやピアニストによって演奏される、というかなり効果的なプロモーションの方法を擁していたので、少なからぬ譜面やレコードの売り上げを常に保証するものの一つだったのである。

だから1920年代の半ばになると、ティン・パン・アレイは、色々な形(例えば、映画のストーリーにインスパイアーされて書かれた曲とか、最初から映画のために書かれた曲、といった具合)で、映画に関係した曲を送り出すようになり、やがて、こうした曲は映画の伴奏音楽の中心的存在として、映画の中で繰り返し、繰り返し使われるようになってきている。

こうした映画のために書かれた曲として最初に大きなヒットとなったのは、アーノ・ラピーが1926年に書いた同名映画の主題曲「シャルメーン」だった。そして1927年にはメイベル・ウエインが「ラモーナ」という映画に書いた同名の曲がジーン・オースティンという歌手によってレコード化され、200万枚以上を売り上げるヒットとなるまでに至っている。

同じ頃、ハリウッドでは新しい技術革新を映画にもたらし、映画の新しい時代を創りつつあった。サウンドをスクリーンに持ち込んで来たのである。1926年の8月6日、ワーナー・ブラザースはニュー・ヨークで初めて映画のために書かれたスコアをシンクロした映画を公開した。ジョン・バリモアーの主演した「ドン・ファン」がそれである。しかし、この映画は、ごく一部の人の間で話題になっただけで、一般にまで、こうしたトーキング・ピクチャーが広く知れ渡るまでにはもう一年の歳月を必要とした。

1927年10月6日、ワーナー・ブラザースがニュー・ヨークで公開したアル・ジョルスンが主演した「ジャズ・シンガー」が、そのエポックを作ったのである。彼はこの映画の中で「ブルー・スカイ」や「マミー」といった曲を歌い、単なる人気歌手から、一躍ハリウッドのキング、ワーナー・ブラザースの主力アーティストとなった。