Vol.47 新しい作家を養成したトーキング・ピクチャー

ティン・パン・アレイの大物作家たちはハリウッドへハリウッドへと活動の場所を求めていた。アーヴィン・バーリンは1929年に、マルクス兄弟の初めてのコメディー映画「The Cocoanuts」のために「When My Dreams ComeTrue」というバラッドを書いて、映画の仕事とつながりを持ち出しているし、1929年から30年にかけてはジェローム・カーン、ウォルター・ドナルドソン、シグムンド・ロンバーグ_といった顔ぶれが西海岸に行き、映画音楽を担当している。1931年にはジョージとアイラ・ガーシュインが「Delicious」という映画に曲を書くためにハリウッドに顔を見せているし、リチャード・ロジャースとロレンツ・ハートのコンビもこの年「The Hot Heiress」で映画の仕事にデビューしている。ヴィンセント・ユーマンスは多くのビッグ・ネームより少し遅れて1933年にウエスト・コーストにやって来た。フレッド・アステラーとジンジャー・ロジャースが初めてコンビを組んだ映画「Flying Down to Rio」の音楽を担当するためである。ヴィンセント・ユーマンスは、この仕事でも「Orchids in the Moonlight(月下の蘭)」や「Carioca」というヒット曲を生み出し、ブロードウェーで培かった“ヒット・メイカー”の名声を保ち続けたのだ。

しかし、こうしたティン・パン・アレイのライターたちが続々と映画音楽の分野に入ってくるのと同じ位に、ティン・パン・アレイやブロードウェーでの経験などほとんど無しに、直接映画音楽の仕事に携わるようになり有名になって行く作家というのが目立つようにもなっていったのである。つまり、ブロードウェーのミュージカル・シアターが果していたポピュラー音楽の作家の養成機関の役割りを、ハリウッド・トーキング・ピクチャーが果し、新しい作曲家を送り出すようになっていたのだ。

ナシオ・ハーブ・ブラウンは、こうした新しいグループの、最も初期の、そして最も優れている何人かの1人だ。1904年、18才の時カリフォルニアにやって来た彼は、一時ヴォードヴィルのピアノ伴奏などをしていたが、やがてハリウッドで洋服屋を開き、かなりの金持ちとなっていた。1920年に1曲出版されたり、’26年にはハリウッド・レビューに何曲か使われたり、といった様に、作曲家としてもまるで新人、といった訳ではなかったが、彼自身作曲家として身を立てるつもりは少しもなかった。しかし、1928年のある日、MGM映画のプロデューサー、アーヴィング・タルバーグが彼を説得して、アーサー・フリードが、映画「The Broadway Melody」のために書いた詞に曲を書かせたのである。この映画の素晴らしい成功ぶりは前に書いた通りだが、その成功がブラウンに新しい人生を切り開いた。1929年、やはりアーサー・フリードと共に「Hollywood Revue」という映画に曲を書いているが、この中からも「You Were Meant for Me」と、「Singin'in the Rain」という大ヒットを生み出している。そしてこの後も彼は映画のために多くの曲を書き、「All I Dream Is Dream of You」や「You Are My Lucky Star」など数多くのヒット曲を世に送り出している。

その他、ロンドンで生まれ、ヨーロッパでパリジャン・ジャズ・バンドやハワイアン、バンドのメンバーとして働き、1929年にアメリカにやってきたハリー・レヴェルなども、この新しい作家グループの代表的な1人と言うことができる。彼は作詞家のマーク・ゴードンとチームを組み、初期のトーキング・ピクチャーで大活躍をしていたからである。また、ハリー・ウォーレンやジミー・マックヒューといった人達は、スタートこそティン・パン・アレイだったが、実際に大きく人々に認められるようになったのはハリウッドに来て映画のための音楽を書くようになってからという点で、また一つの違ったパターンを創り出している。