Vol.48 失われたリーダー・シップ
こうした、ティン・パン・アレイを経ないで、映画音楽を手がけることによって有名になる作家が出現し、映画音楽がそのままヒット・ソングになる、という一つのパターンが完成した時、ティン・パン・アレイはその崩壊を一層色濃くしたのである。ある意味で、1934年にアカデミー賞の部門賞に“主題歌賞”が加えられ、フレッド・アステアーとジンジャー・ロジャースの「The Gay Divorce」の中の「The Continental」が、その第1回目の受賞曲になった事が、そうした事実を社会的にハッキリさせた、とも言えるだろう。と、いうのは、この「The Continental」という曲は、コール・ポーターの作曲したミュージカル「The Gay Divorce」を映画化するに当って、ハリウッドの製作者が、コン・コンラッドに新たに書かせた曲だったからである。ティン・パン・アレイのリーダー・シップは失われ、新たなリーダーが登場していることを人々に如実に知らせるのに、これ以上の舞台と機会は仲々考えないでではないだろうか?
前にも記したように、ティン・パン・アレイは1920年代に入って色々な新しい状況を迎え、苦しい状況に陥っていた。シート・ミュージック(譜面)の売り上げは減少の一途をたどり、10年前の売り上げ数に比べて75%も少ない枚数しか売れない、という有様で、多くのヒット曲が10万枚以下、という事もまれではない状況だった。そこで音楽出版社は、正常な業務を続けていくためには、これまでと同じようにシート・ミュージックの売り上げを主な収入とせず、何らか他の収入源を見出さなければ、生き残る事が出来ない、という事を認識せざるを得なかった。レコードが発売され、印税が入るようになった(前述)が、それにしても、このシート・ミュージックの売り上げダウンに伴うギャップを埋めるには少なからず間があった。1920年代の後半には、そうした苦境を何とか脱出しようとティン・パン・アレイの9つの出版社が、銀行のバック・アップを受けて(アメリカでは既に1920年代から音楽出版ビジネスに対して銀行が融資する程、音楽出版というものに対する認識と、その社会的地位が高かったことが、この事からもうかがわれる)合併する話を勧めていた程だ。しかし、この合併作戦は、「The Jazz Singer」の大成功による、トーキング・ピクチャーの隆盛がもたらした新しい繁栄(のように見えたもの)によって忘れ去られてしまったのである。
言うまでもなく、トーキング・ピクチャーの限りない音楽に対する欲求が、飢えた音楽業界に天からの恵みの食物を与えた格好になったからである。ティン・パン・アレイがこの状態を見て、過去の栄光と繁栄がもう一度やって来て、自分たちが豊かに太っていく姿を期待し、想像したとしても当然のことと言えるだろう。
しかし、事実は彼らの予想した通りには進まなかった。勿論多くのティン・パン・アレイのライターがハリウッドで仕事のチャンスを与えられたが、それと同じように新しいライターが直接映画界と関係を持って、ヒットを作り出すパターンが多くなってきたことが一つ。そして、映画音楽に於ける音楽の重要性を悟ったハリウッドのスタジオの資本家たちが、単に新しい音楽を自分たちの設立した音楽出版社で管理するだけでは物足りなくなり、既に多くの楽曲の権利を持っているティン・パン・アレイの出版社を(自分の会社の傘下に収めれば、それらの楽曲を有利に利用できると同時に、もう一度吸収できる、という意味で)買収する、という方向に動き出したことがもう一つ。映画界の方が独自に動き出したのである。ワーナーは1.000万ドル以上の金額でハームス、レミック、ウィットマークといったティン・パン・アレイの老舗を傘下に収め、MGMはレオ・フェイストやロビンスなどを買収している。