Vol.5 初期の近代的音楽出版社

その他の新しい新しい出版社としては、シカゴにあった、ウィル・ロッシターの会社がある。
彼は作曲家としても活動していた(これまでにも何度か書いたが、この頃出現した多くの新しい音楽出版は、それまでの、ただ曲の権利だけを取って音楽出版社としての役割を何もしない古い出版社のやり方に飽き足りなくなくなったり、自分ならもっと巧くやってみることが出来るという自信を持ったりした作家が、自分で出版社を設立するというケースが殆どだった)が、やはり、古い出版社のやり方に満足せず、自分の出版社を設立した1人だった。
  現在、歴史に残るようなヒット曲を彼の会社は残していないにも拘わらず、彼の名前が初期の近代的音楽出版社の1つとして語り継がれ、名を残すことができているのは、彼が音楽出版社としては、初めて積極的にプロモーションを始めたからである。
  彼は、それまでの出版社が、ただ譜面を印刷して、それを店に送るだけで、あとはただ歌手がやって来て、それを買って歌い、その歌を聞いた人々が、気に入って譜面を買いに来るのを待つ、ということしかしていなかったのに対し、後に、ティン・パン・アレイという言葉が出ると、必ずといっていい程一緒に使われるソング・プラッガーとして、譜面の小売り店の店頭で、曲を歌い、道行く人々に、自分の曲が、どんな曲であるか積極的に知らせたのである。
  (ソング・プラッガーとは、出版社の曲を歌手やレコード会社のA&Rマンに売り込む役目の人で、ピアノを弾きながら歌っていた。こうしたソング・プラッガーが、一つのビルの中に雑居した、いくつもの出版社のオフィスで、ガチャガチャとピアノを弾きながら自分のところの曲を歌っているのを聞いた新聞記者が、ティン・パン・アレイという言葉を思い付いた事は、最初に書いた通りだ。)
  そしてまた、このソング・ブラッキング作業を初めて行ったウィル・ロッシターはまた劇場の業界紙に自社の曲の広告を出すという、出版社として初めて広告を打ついう宣伝活動を行ったことでも知られている。
  また、もう1人の初期の音楽出版社として歴史に残っている人物に、チャールス・ハリスがいる。彼は最初、作家としてウィットマーク&サンズと印税方式で契約していたが、あまりの収入の少なさに自分で出版社を作ったのだ。そして、あっという間に友人2人から出資してもらった500ドルずつも買い取れる程の利益を生み出す出版社としたのである。

  しかし、このチャールス・ハリスが、ティン・パン・アレイの歴史に名を残しているのは、そうした彼の出版社の初期の活動ぶりがめざましいものであった、ということではなく、ティン・パン・アレイ史上、特筆すべきヒット「アフター・ザ・ボール」を作曲し、出版した、ということによるものだ。
  ダンス・パーティの後で若いカップルが喧嘩をしているのを見ていたチャールスが、その光景にヒントを得て書いた曲「アフター・ザ・ボール」は、現金500ドルと曲の印税のパーセンテージという、ペイオラの結果、J・アルドリッチ・リビーという歌手が、「A Trip To Chinatown」というショーの中で歌うことになり、あっという間に知れ渡ったのである。
  ボストンの小売店だけで75、000部の注文が来たこの曲の譜面は、チャールス・ハリスの出版社に1週間で25、000ドルの収入をもたらし、遂には、ティン・パン・アレイ史上でも記録的な、500万部という売り上げを達成するヒットとなるのである。