Vol.50 ティン・パン・アレイからレコード・ロウへ

しかしティン・パン・アレイを崩壊に導いていったのは何もハリウッドの映画産業だけではなかった。時代と共に年々巨大なスケールになっていったレコード業界もまた、ティン・パン・アレイに対して大きなショックを与えているのである。

実際のところ、1920年代には4.000万枚(金額にして約7.000万ドル)の売り上げを上げていたアメリカのレコード産業は、1930年代の初期に大恐慌の影響を受けて一時伸長を止めてたものの、アメリカの経済の復興と共に急激な成長を続け、1949年には1億万枚(金額にして1億7.300万ドル)に伸び、以後、1954年、1960年など、例外的に前年対比で少々の減となっている年があるものの、ほぼ毎年伸び続ける__という成長を続けているのである(参考までに、1978年の数字を見ると、1949年の24倍弱という、41億3.100万ドルという驚くべき売り上げ数字を上げるに至っているのである)。

この成長を続けるレコード業界というものは、音楽出版社にとって、限りない利益を生み出すことの出来る可能性を持ったものだったが、それは飽くまで音楽出版社がレコード会社やアーティストと何らかのダイレクトなつながりを持てた場合、という時に限られていた。そして、こうした変化は、ティン・パン・アレイの花形とでもいうべき、歌手やバンド・リーダーにピアノを弾いて、自社の曲を歌い、その曲がどういった曲であるかを彼らに知らせ、彼らのレパートリーに入れさせていたソング・プラッガーの位置に少なからぬ影響を与えずにはおかなかった。つまり、彼らは音楽出版社の花形から、日陰に追いやられ、中には解雇されるものさえ出て来たのである。そして、その代りに出版社の花形となったのは、レコード業界で音楽出版社との連絡窓口になっていた“メカニカル・マン”と呼ばれていた役割の人間と何らかのコンタクトを持っていたオフィス・マネージャーと称される人間である。そして、このレコード会社の“メカニカル・マン” を通じて、音楽出版社のオフィス・マネージャーから持ち込まれた楽曲は、そのレコード会社の“A&Rマン”(Artist and Repertoryの略。つまり自分の担当するアーティストに、どんな曲をレコーディングさせたらいいかを判断するのが仕事なので、こうした名前が冠せられた。現在でいうプロデューサーである)によって選択され、どの曲が、どのアーティストによってレコーディングされるかを決定されていた。当然のことながらA&Rマンの意志一つで出版社はヒット曲を持つことが出来たり、いい曲なのに何のリアクションも起らないままで終ってしまう、ということになったり、という状態にいやおうなくさせられることとなり、ここでも音楽出版社は、映画産業が傘下の音楽出版社にとったのと同じ態度を、A&Rマンから味あわされることになるのである。

こうして、レコード業界の発達と共に、ティン・パン・アレイとレコード業界の楽曲に対する力は、1940年代には完全に逆転し、もはやヒット曲の生み出されるのはティン・パン・アレイからではなく、レコード・ロウ(ティン・パン横丁という音楽出版社街の呼び方に対して、レコード会社の集まっている地域をさして、多分の皮肉を込めてこう呼んでいた)になった、と嘆かざるを得なくなっていたのである。何といっても、一つの楽曲をポピュラーにするのに、音楽出版社のあらゆる機能を生かしてプロモーションを行い、その結果、自分のところでプリントした譜面を売って利益を得る、という、一つのトータルした作業を行っていたティン・パン・アレイが、今や、レコード業界の力を借りて、とにもかくにもレコーディングしてもらい、ヒット曲にしなければならなくなってしまっていたからである。