Vol.57 打ち壊されたティン・パン・アレイの中心の概念

ディック・クラークの話が長くなった。しかし事程左様にディスク・ジョッキーの持つ力は1940年以降、年と共に強くなって行き、彼等の影響力を抜かしては音楽業界を語れないようになっていた。要するにディスク・ジョッキーの力で、その土地、その土地でヒットが生まれるようになったのである。フィル・ハリスの「The Thing」はそのいい例だ。しかし、このレコードのようにティン・パン・アレイの人間が少しでも参加したケースはまだしも、ローカルのマイナー・レコード・レーベルが、その土地のアーティストや作家の作品をレコーディングして発売しても、もしそこの放送局のディスク・ジョッキーが放送してくれれば、かなりのヒットとなり、ある程度の商売が成立する、という事がいくつか実正され出すと、これはそのままテキサス州の出版社も、存分存在することが出来るという事を意味し、ニューヨークにあるティン・パン・アレイが、音楽出版ビジネス中心地である、という概念を打ち壊したのである。
  メンフィスのディスク・ジョッキー、デューイ・フィリップスによる、メンフィスのローカル・レーベル、サン・レコードの新人、エルヴィス・プレスリーの「That's All Right, Mama」と「Blue Moon of Kentucky」のAB面を1日に7度ずつ放送して、エルヴィス・プレスリーを南部のビッグ・アーティストにしたのも、1926年にエルノ・ラベルとルー・ポラックの作詞・作曲した「Charmaine」という古い曲をマントヴァーニ・オーケストラが演奏したレコードをクリーヴランドのディスク・ジョッキー、ビル・ランドルが気に入って繰り返し繰り返し放送したことによってヒットしたのも、ケンタッキー州ルイズヴィルに住んでいたアマチュア作曲家、ミセス・チルトン・プライスの作った曲、「Slow・Poke」がピー・ウィ・キングのレコードで発売された時、自分たちの近所の人が作った曲だから、といってルイズヴィルのディスク・ジョッキーが特に好意的に放送した結果、ヒットとなった(彼女は、この後にもう1曲「You Belong To Me」という素晴らしい曲を書いているが、この時も、ルイズヴィルのDJは大いに応援している)のも、そうしたディスク・ジョッキーによってローカルでヒットが作られたケースである。しかも、こうした例で判るように、このように最初一つの小さなマーケットで一人のディスク・ジョッキーによって火の付けられたレコードは、大半がその後全米ヒットへとつながっているのである。(1950年半ば以降のロックン・ロール時代になると、ますますこの傾向が強くなってくる事は、前にも書いたマイナー・レコードの増化とDJの音楽業界に於ける力の増大という二つのファクターが組み合わさるのであるから、当然の結果と言うことができるだろう。特に1950年代後半にはディック・クラークの本拠地だったフィラデルフィアから多くのヒットが出ている)
  余談であるが、日本のアーティストとして初めてアメリカのヒット・チャートで第1位に輝いた坂本九の「上を向いて歩こう(SUKIYAKI)」も、もとはと言えばアメリカの1人のディスク・ジョッキーが友人の持っていたレコードを面白半分から放送したことがキッカケとなって、あの大ヒットになっているし、ポール・モーリアの「恋は水色」も、MIDEMの会場で、他のアメリカの有力な出版社がすべて断った曲だったのを、ニュー・ヨークの小さな出版社が“自分は1人、こういう曲の好きなDJを知っているから、彼に頼んで放送してもらう”という事を条件に、タダ同然で権利を取り、約束通り、そのディスク・ジョッキーにレコードをかけてもらったことから、アッという間に大ヒットに化けていったのである。