Vol.6 ドラマチックな成長を遂げた音楽出版ビジネス

アメリカのレコード・ビジネスが、この1970年代10年の間に各種のイノヴェイションと、努力を積み重ねた結果、ドラマチックな成長を遂げた(例えば、最も目につき易い例をあげれば、アルバムの売り上げ枚数がある。今から10年前、ゴールド・アルバムと呼ばれる、売り上げが約25万枚を越えるレコードは、かなりあったが、プラチナ・レコードと称される、100万枚以上の売り上げを記録するレコードというのは、年にほんの数枚が出るか出ないか、といった状態だった。それがキャロル・キングの「つづれ織り」が500万枚という、一つの不可能と思われていた壁を破るや、ピーター・フランプトンの「カムズ・アライヴ」が700万枚、フリートウッド・マックの「噂」が800万枚と、次々と新しい可能性を開拓し、遂にはビー・ジーズの「サタデイ・ナイト・フィーヴァー」が、到達することはまず出来ないのではないかと業界の殆どの人が考えていた魔法の数字、1、000万枚の売り上げを越している。そして、こうしたリーダー・シップをとるアルバムの数字が爆発的に伸長するに従って全体の売り上げも上がり、今や、プラチナ・アルバムというのはアーティストが自分たちの発表したアルバムが成功したかどうかの一つの判断の基準とするアヴェレージ・ナンバーとなってしまい、10年前の”超ベストセラー・アルバム”というイメージは、すっかり変わってしまっているのである)ように、約100年前のアメリカの音楽出版業界も1880年代から1890年代にかけての10年間に、これまでに記してきたような、新しい世代の意欲的なポピュラー・ミュージック専門の音楽出版社の登場と、彼らの行った数々のイノヴェイションと、企業(と言える程まだスケールは大きいとは言えないが…)努力の積み重ねによって、これまたドラマティックな伸長を見せたのである。

  譜面の売り上げ(当時の音楽出版社の収入は、すべて譜面を発行して、その売り上げによるものであった)は、1880年代の初期、つまりティン・パン・アレイの基礎となる新しい音楽出版の登場が始まった頃には、ビッグ・ヒットと言われるもので5万部に達するかどうか、というスケールのものであったのが、1890年には25万部のセールスでは、それ程目につく、といったヒットではなく、70万、80万、といったビッグ・セールスを記録するものがかなり出てくるようになる。そして、1892年のチャールス・K・ハリスの「アフター・ザ・ボール」は、100万部はるかに越える数の譜面を売った初めての曲となり、最終的には500万部の売り上げを上げるのである。そしてまた、この曲の売り上げの素晴らしさは、ポピュラー・ミュージックというものが(と、いうより、ポピュラー・ミュージックの譜面を発行する、という音楽出版ビジネス、というものが)一つの巨大な産業になっている、ということを如実に物語っていたのである(丁度、ビー・ジーズの「サタデイ・ナイト・フィーヴァー」が、1、000万枚の売り上げを達成した事で、多くの人がレコード業界の今後を見通しについて、再び大きな夢を描く事が可能になったのと同様に)。

  それまで、数少ない譜面専門の小売り店だけだったものが、デパートに譜面売り場が出来、1900年代に入ると、新聞がヒット・ソングの譜面と歌詞を載せたページを作ったり、デパートがチラシ広告にヒット・ソングの歌詞を印刷して配ったり、といった、事が起こっている事も、そうした一つのビジネスが巨大化する時に必ずその周辺に起きる変化の一つ、と言うことが、出来るだろう。
  そしてセンチメンタル・バラードは、折からニューヨークのユニオン広場周辺に集まりつつあった、ティン・パン・アレイの出版社が競って扱う曲種となり、ティン・パン・アレイ=センチメンタル・バラードという一つの図式が出来上がるようになるのである。