Vol.8 新しい音楽出版社のリーダー的存在
このジョセフ・W・スターン&カンパニーは、1920年にスターンが出版界を引退した時、エドワード・B・マークスによって後を引き継がれている。つまり、現在のE・B・マークス音楽出版社である。
第1期の新しいパブリッシャーが、色々やっていた方式を参考にして、それの足りない部分、巧くいかない部分を、つけ足し、改良して行くのであるから、大体は順調に推移することになる。ティン・パン・アレイの本格的活動は、こうした第2期の新しい出版社が中心となっていたのも当然と言える。そしてまた、E・B・マークスを初め、レオ・フェイスト(彼もまたコルセットコルセットのセールスマンだったが作曲家に転じた。 最初 J・スターンとE・マークスの2人に、自分もJ・W・スタイン&カンパニーのパートナーにするよう、申し入れたのだが、アッサリ断られたので、自分で出版社を設立した)、リュウ・バーンスタインとモーリス・シャピロの始めた、シャピロ=バーンスタインあるいは、ジェローム・レミックの出版社といった、この14番ストリート周辺に誕生した第2期の新しいパブリッシャーが、現在でも何らかの形で人々によく知られている存在になっている事も。しかし、こうした、新しい、積極的に色々な動きをする第2期の出版社に一歩もひけをとらないばかりか、依然として、次々と新しい事を考え出し(それを他の出版社がすぐに真似をして行くのであるが、・・・)、業界のリーダー・シップをとっている第1期の新しい出版社が一つあった。ウィットマーク&サンズである。
彼らは、数多くのヒット曲を次々に送り出していた、という実績面でも大変優れたものがあったが、それよりも、その後の音楽出版社のベーシックなやり方となる、いくつかのメソッドを考え出し、紹介したのだ。
例えば、“プロフェッショナル・コピー”と呼ばれる、歌手のための無料の譜面を作って、配ったのは彼らが最初である。レコードもそれ程ポピュラーではなかった、この時代歌手がステージでとり上げてくれることが何よりも譜面の売れ行きを伸ばす最良の手段だったのだからコロンブスの卵の様な発想なのであるが・・・。
またオーケストレーションのアレンジャーにフランク・サドラーを雇い、新しいユニークなハーモニーや、変わった楽器の効果を加えた、人々の耳をひくアレンジを行い、ポピュラー・ソングのオーケストレーションに新しい時代を導いたのもウィットマーク&サンズである。
そしてその後ティン・パン・アレイの一時期を風靡することになるラグタイム・ミュージックに最初に興味を示したのも、ティン・パン・アレイにミュージック・ライブラリーを最初にオープンさせたのも、ジョン・ストロンバーグの「Kiss Me Honey, Do」などの曲の権利を持っていた、ウェーバー、フィールズ&ストロンバーグの出版社を10000ドルで買収し、大金を払って(当時1曲当り作家から買い取る額は10ドルから100ドルというのが普通だった)、いい曲を持っている他の出版社を買収するのが、一つの見事なビジネスになり得る事を実証したのも、すべて、ウィットマーク&サンズの行ってきた事柄は、ティン・パン・アレイの、というより、1979年現在の日本の音楽出版社にも充分通じる、ミュージック・パブリッシャーとしての生存のためのメソッドと言えるのである。
彼らが、パブリッシャーとして、メジャーになっていった事が納得できるだろう。